ドイツ再統一を果たした首相

 今年で東西再統一して20年になるドイツ、第2次大戦後東西に分割されたドイツを再び一つの国家とするなど東西再統一の功労者と言えば、当時西ドイツの首相だったヘルムート・コール首相であることは間違いありません。今から80年前の今日、1930年4月3日はそのヘルムート・コール氏が生まれた日です。

 ヘルムート・コールは1930年4月3日、ドイツ西部のラインラント=プファルツ州にあるライン川西岸に位置する町・ルートヴィスハーフェンで財務官吏の子として生まれました(3番目として、兄の一人は第2次大戦で戦死している)。ギムナジウム在学中だった1946年にコールはCDU(キリスト教民主同盟)に入党し、翌1947年に地元でCDUの青年団組織発足に関わり、1953年には党の州支部事務局に加入、翌1954年には青年団組織の州の副代表に選出された他翌年には州の党執行部委員に選ばれるなど頭角を現し、その後フランクフルト大学やハイデルベルク大学で法学や政治学を専攻し、1956年には同じ大学で助手を務め、2年後の1958年には「プファルツにおける政治返還と政党の再建」という論文を発表し博士号を取得しました。
 コールは翌1959年に地元ルートヴィスハーフェンの党代表、さらにその後も市議会の党議員団長、ラインラント=プファルツ州議会党幹事長、当の州支部代表とめきめき出世し、1969年にはラインラント=プファルツ州の首相に選ばれるなど(同時に党の連邦代表委員にも選出された)、実質地元における党の代表となったことで、ラインラント=プファルツ州におけるCDUの大物となりました。

 地元の代表となったコールが次に目指したのはCDUの党首、しかし1971年に選挙に立候補したもののライナー・バルツェル(後にコール内閣で閣僚となる)に敗れ辛酸をなめましたが、そのバルツェルが翌年に党首を辞職すると(当時のヴィリー・ブラント政権に対する不信任案決議を起こしたが、これに失敗してCDU内での求心力を失った為)、棚ぼたで翌1973年コールはCDUの党首となりました。
 次に目指したのはドイツの首相で、コールは1976年に連邦議会選挙にCDU代表として出馬、得票率48パーセントを記録して第一党となるものの、SPD(社会民主党)とFDP(自由民主党)の連立政権を崩すまでには至らず、この選挙をきっかけにコールはラインラント=プファルツ州の首相を辞め、連邦議会議員として活動することとなりました。

 1980年の連邦議会選挙ではCSU(キリスト教社会同盟)の党首に首相候補の座を譲る事を強いられたものの、またも敗北という辛酸を味わったのでした。
 しかし1982年に政策方針を巡ってSPDとFDPの連立政権内で確執が生じ、これに乗じてコールはFDPと連立協議に向けた会談をして、同年10月ヘルムート・シュミット政権に対する不信任決議案を出し、FDPもこれに同調したことでシュミット政権は倒れ、これによりコールは第6代ドイツ連邦共和国首相に就任したのでした。
 しかし突発的なやり方で政権を奪取し、長く地方政界にいたことで国際政治に精通していないという声もあり、コールの首相就任を疑問視する声もあったのでした。そんな周囲や世論からの不安を払拭する為、コールは同年12月に内閣信任決議案を提出し、大統領の議会解散令を引き出すなど自分自身の「信」を問う為翌1983年に総選挙を実施し、連立与党が勝利を収めたことでゴタゴタを解決したのでした。

 首相として最初に取り組んだのが、当時の東側軍事機構・ワルシャワ条約機構に対する抑止力を高める為の軍備増強で、国内からの反対を押し切りながらもこれを実行したのでした。1984年にはフランスのフランソワ・ミッテラン大統領と第1次世界大戦における激戦地ヴェルダンを訪問して、お互いに戦没者を追悼して両国の友好を訴えました。フランスとはその後も軍事関係でも強化したり、2カ国合同のテレビ局の開局、マーストリヒト条約の締結、ヨーロッパにおける共同通貨「ユーロ」導入への動きをみせるなど、良好な関係を作りました。これまで長く対立してきた両国が今やお互い強力なパートナーとして歩くという歴史的な一歩を演出したのは言うまでもありません。これはドイツとフランスが過去を乗り越えた瞬間と言えます。
 またアメリカとも関係を強化し、1985年には当時のロナルド・レーガン大統領と共同で第2次大戦のドイツとアメリカの戦死者が眠るピットブルク墓地に献花しましたが、この墓地にはナチスの親衛隊員も葬られていた為に内外から批判も受けたのでした(レーガン大統領も批判を受けた)。

 1987年の連邦議会選挙でも勝利し3期目を迎えたコールは、1989年に東ヨーロッパ諸国での民主化運動やベルリンの壁崩壊を受けて、東西ドイツ再統一という目標を掲げたのでした。
 しかし、これには内外から不安と警戒が当然起こったのでした。2度の世界大戦を引き起こした過去があるドイツがまた再び一つの国となればまた同じことが起こるのではないかと言う周辺国からの警戒感や、西ドイツ国内では経済格差がある東ドイツを吸収すれば経済的な負担が大きくかかると言う反発もあったものの、コールは統一へ前進し、ヨーロッパ統合推進派として統一ドイツをEU(ヨーロッパ連合)及びNATO(北大西洋条約機構)の枠内に位置づけることを宣言し、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の首脳から合意を得ることに成功したことで、1990年10月3日、コールが目標として掲げた東西ドイツ再統一を果たしたのでした。

 二つに分かれていたドイツを再び一つの国にしたことで、国民からは高く支持され自身の影響力や威信力も高まったのでした。同年12月には再統一後初めて行われた連邦議会選挙でも勝利して自身4期目を迎えました(この為西ドイツ最後の首相であり再統一ドイツ初代首相でもある)。

 だが再統一の歓喜からしばらく経つと、統一の困難な現実がチラホラ出てきたのでした(経済格差や失業など)。それでもコールは1994年の連邦議会選挙でも勝利し5期目を迎え(その時の環境・自然保護・原子力安全相を務めたのが現首相アンゲラ・メルケルである)、1996年にはこれまでコンラート・アデナウアーが持っていた在職期間を更新しましたが(アデナウアーの在職期間は14年)国民からの訴えは収まらず地方選挙ではSPDに立て続けに負け、議会では与野党の立場がいつの間にか逆転していたのでした。もはやコールの求心力が低下していることを裏付ける現実を目の当たりにしながらもコールは権力と地位にこだわり続けたものの、1998年の連邦議会選挙で大敗し、SPD候補だったゲアハルト・シュレーダーに政権の座を譲ったのでした。

 首相在職16年という数字は歴代ドイツ首相で最も長かったコール、敗北のショックは大きかったのかCDU党首も辞任したものの、その後は不正献金が発覚するなどスキャンダルにまみれるという顛末であり、ドイツ再統一の功労者という名声すら地に堕ちたのでした・・・。その後については不明だが、昨年のベルリンの壁崩壊20周年を記念した式典の際にゴルバチョフ氏などと会談したものの、政府主催の式典は参加しなかったという報道も報告されている。

 再統一で国内から英雄ともてはやされた首相が金銭スキャンダルで名声が地に堕ちた・・・。このような顛末は2000年に南北首脳会談を行ったことで朝鮮半島の和解ムードを推進させノーベル平和賞を受賞しながら、大統領辞任後に不正献金や親族の金銭トラブルなどで名声を落とした金大中と全く同じだと思いますね。

 16年間もドイツの首相として君臨し(内8年は西ドイツ)、東西に分断されていたドイツを再び一つの国にしたヘルムート・コール、しかし自身のスキャンダルで名声を落とし、また未だ東西格差の激しい今のドイツの現状、ドイツ国民は再統一して20年を迎える今、統一の立役者であるコールに対する評価はどうなんでしょうかね・・・? メルケル首相も統一して20年になる今、コールをどう評するんでしょうか・・・?

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