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東ヨーロッパ民主化革命で最も生々しい革命

 ヨーロッパ東南部に位置する国・ルーマニア、伝説のオリンピック選手ナディア・コマネチ「吸血鬼ドラキュラ」のモデルとされたヴラド・ツェペシュ公、また「吸血鬼ドラキュラ」におけるドラキュラ城のモデルとなったブラン城(ルーマニア南部・トランシルバニア地方ブラショフにある城)などのイメージが日本人にはありますが、20年前の東ヨーロッパ民主化革命において、この国で起こった革命は生々しいものでした。そんなわけで今から20年前の今日1989年12月22日は、そのルーマニアで共産党政権が倒れた日であります。

 ヨーロッパ東南部にあるルーマニア、第2次大戦後他の東ヨーロッパ諸国同様共産党政権が誕生し東側陣営に加わったものの、他の東ヨーロッパ諸国とは違いソ連と一定の距離を置く独自の外交政策を展開したのでした。そんな中1965年にニコラエ・チャウシェスクが共産党書記長に就任し、1967年国家評議会議長、さらに大統領制がしかれるようになった1974年に初代大統領となったのでした。
 チャウシェスクは東ヨーロッパの中でもソ連と距離を置く外交政策を取り(前任からの踏襲)、1968年にチェコスロバキアで起こった「プラハの春」では自国の軍をプラハに派遣せず、またこの時のソ連の行動を批判したことで西側諸国から評価されたのでした。また1984年のロサンゼルス・オリンピックでは前回のモスクワにおいて西側諸国のボイコットに抗議してソ連など東側諸国がボイコットしたのに対しルーマニアは参加するなどソ連を距離を置く姿勢を取ったのでした。

 だが国民からはじめ支持されたものの、チャウシェスクは家族とともに国民の感覚からかけ離れた生活を送るようになり、膨れ上がる対外債務や国民の生活が厳しくなるなど、ルーマニア国内の経済が悪化しているにも関わらず贅沢の限りを尽くし、首都ブカレストに「国民の館」と銘打った巨大な宮殿を建立したり(同じように国内経済が悪化しているのに関わらず自分の宮殿を立てたザイール《現コンゴ》のモブツ・セコとも重なる)大ドナウ運河を建設するなどし、チャウシェスクの家族・親族らが党や国家の要職を占めるようになり、国民を無視した政治姿勢を取るチャウシェスクに対し国民は失望し、支持を失い始めるのでした。

 国民からの不満に対しチャウシェスクはセクリタテアと呼ばれる秘密警察を導入し、徹底した監視と密告により国民を支配したのでした。

 1980年代に入ると、ルーマニア国内での経済状況は悪化するようになり国民からの不満はさらに高まったものの、チャウシェスクは軍備強化のため夫婦に子供を5人以上つくるよう義務化したり、少数派民族に対する弾圧を強めるなど恐怖支配を強め、国民をますます支配する姿勢を取ったのでした。
 1985年にソ連でミハイル・ゴルバチョフが書記長に就任し、ペレストロイカの気運が東ヨーロッパに波及するようになったもののチャウシェスクは自身の体制維持に固執し民主化運動への妥協はしないと強硬な姿勢を取り、1989年に民主化気運が東ヨーロッパ全土で高まると、ワルシャワ条約機構による軍事介入を主張したのでした。

 同1989年12月16日、ルーマニア西部のティミショアラで起こった民衆によるデモが勃発し、これに対し治安部隊がデモ隊目掛けて発砲して多数の死傷者を出したことで、国内で反チャウシェスクの動きが一気にエスカレートするのでした(デモの背景は、ティミショアラ在住のハンガリー人牧師に対し共産党政権が国外退去命令を出したことがきっかけ)
 12月21日、チャウシェスクは共産党本部のバルコニーで官製集会を行い、最後の演説をしたものの国民の大半はもはやチャウシェスクに「NO」を突きつけていたのでした。他方集会に参加した学生の多くが反チャウシェスク集会を開いたものの、治安部隊がこれに発砲し多数の死傷者を出すことになってしまい、チャウシェスクに対する不満は頂点に達したのでした。

 そして今から20年前の今日1989年12月22日、革命勢力の攻勢によりチャウシェスク大統領は失脚し共産党政権は倒れたのでした(この時当時国旗の中央にあった紋章がくり抜かれた旗が目立つようになった)。しかしこの革命、続きがあったのです。

 反体制派勢力は共産党下の反チャウシェスク派と組んで救国戦線評議会を結成し、政治犯を釈放してテレビ局やラジオ局を占拠し「自由ルーマニア放送」を設立したのでした。事の成り行きにチャウシェスクは非常事態宣言を出し事態に対応しようとしましたが、このとき軍は革命勢力に参加しており、チャウシェスク派気が付けば孤立していたのでした。民衆の圧倒的な抵抗に対しチャウシェスクはエレナ夫人もろとも建物の屋上からヘリで脱出しましたが、この逃亡劇、自由ルーマニア放送が全世界に流したのでした。
 23日には救国戦線評議会とチャウシェスク派の治安部隊の対立は凄惨を極めるようになり、ブカレストなどで多数の死傷者を出した中、救国戦線評議会はチャウシェスク大統領夫妻を逮捕し、その様子を放送したのでした。市街戦は続き、チャウシェスク派の要人は次々と逮捕されたのでした。

 そして12月25日、救国戦線評議会による軍事法廷はチャウシェスク夫妻を大量虐殺・不正蓄財の罪で起訴し、死刑を求刑したのでした。そして即日銃殺刑となり夫婦もろとも処刑されました。この様子は全世界に報じられ、日本でもこのニュースを一斉に報道し、特にフジテレビは深夜にも関わらずこの様子を報道特番として放送した。救国戦線評議会はまた処刑から遺体の様子を全世界に公開したのでした。

 その後のルーマニアでは、チャウシェスク時代の負の遺産による打撃が原因か、経済停滞を招き失業率が増加するなど国民生活は当時より変わらず、革命から10年経った1999年に行われた世論調査では「チャウシェスク時代のほうが良かった」と答えたのが60パーセントを占め、各地の工場や炭鉱ではストライキが多発しデモも起こり、その中で「チャウシェスク、私たちはあなたが恋しい」というプラカードを掲げる人もいたくらいでした。国民に嫌われた独裁者が最低限の生活を保障していたことで逆に再評価されるというのは何という皮肉でしょうか。1000人以上の犠牲者を出した革命児の加害者の追及を巡る問題など、革命はまだ終わっていないとの声も多く、未だルーマニアにおいて問題となっているようです・・・。

 国民を虐げ自分は贅沢の限りを尽くすなど圧政をしいたニコラエ・チャウシェスク、国民によって処刑されるという結末は「悪名高い独裁者は哀れな最期が似合う」ということを証明したのではないでしょうか?(いずれ北朝鮮の金正日、ジンバブエのロバート・ムガベ、ミャンマーのタン・シュエなどもああなって欲しいが)

 ポーランドや東ドイツ、チェコスロバキアとは打って変わって、多数の犠牲者を出すなど生々しい民主革命だったルーマニア民主化革命。多数の犠牲を出しながら勝ち取ったあの革命を今、ルーマニアの人たちはどう見ているのでしょうか?

theme : 歴史
genre : 政治・経済

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