「不惑の大砲」
今や40過ぎてもプロ野球の第一線で活躍する選手は珍しくないが、かつては少数派でした。
中でも40歳にしてタイトルを獲得してかつMVPまで取るというのは偉業として相応しいでしょう。それを果たしたのは門田博光、かつて南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)で主砲として活躍したレジェンドの一人として有名です。私も結構好きなレジェンド選手の一人なんですけどね。
そんなわけで今から70年前の今日1948年2月26日は、門田博光が生まれた日です。
1948年2月26日、山口県小野田市(現・山陽小野田市)で貿易商を営む一家に生まれた門田、しかし生まれて間もなく父が事業に失敗、一家で奈良県五條市に移住、つましい家庭で育ち中学生で野球にのめり込んで本格的に始め、その後進学した天理高校では努力を重ねてレギュラーになり、天理高を卒業後は社会人のクラレ岡山に進みそこでレギュラーを掴んで活躍、1970年にドラフト2位で南海ホークスに入団したのでした。
頭角を現すようになったのは2年目、野村克也兼任監督から3番に抜擢され(当初は2番を任せる予定だったがこれは頓挫、野村が「俺の前に据えとけ」と提案した)、、この年に31本塁打・120打点を上げて打点王に輝いたのだった。
だが野村は「塁に出ろ、大振りはするな」とホームラン狙いの門田の打撃を批判、強振するごとに野村は怒ったが門田は全く聞く耳を持たなかったのです。困った野村はオープン戦で王貞治らに「ホームランはヒットの延長」とホームラン狙いのバッティングを改めさせるよう動いたものの門田は「監督は口裏合わせしてる」と苦言に聞く耳すら傾けませんでした。これが後に野村が門田は扱いづらい選手だったと語っている(他は江本孟紀・江夏豊)。
1977年オフに野村が公私混同を理由に退団してからは本気でホームラン狙いに徹し、1キロの重いバットを使って上半身ギリギリまでねじって力をためてフルスイングをしたり、ウェイトトレーニングを積極的に取り入れてパワーをつけたり、相手の研究も欠かさないなどホームランを量産する為の努力を重ねたのだったが・・・。
1979年の春季キャンプでランニング後の柔軟体操の際、アキレス腱断裂という重傷に見舞われ、野球人生最悪の危機を迎えたのだった!!(その際戸板に載せられたという)
地元の病院に入院、今までアキレス腱断裂から復活した選手はおらず絶望感すら漂ったが、ここで諦めなかった門田は手術を経てリハビリを重ね、とにかく素振りもこなすなど復活に向けて動いたのです。リハビリを続けるうちにふと思ったのは「ホームランなら足に負担がかからない」という考えでした(またこの入院中に「菜根譚」なる本に出会っている)。シーズン絶望と思われたものの、1979年シーズン終盤に復帰、そこでホームランを放ち復活を感じさせたのでした。
翌1980年にはアキレス腱断裂の後遺症から足の負担を考えて指名打者となり、同年41本を放ってカムバックを見せつけると、翌1981年には月間ホームランの新記録を達成するなど(16本)ホームランを連発、44本で初めて本塁打王に輝いたのです。
でも門田はそれで満足せず、王貞治が持っていたシーズン55本を抜き、なおかつ60本塁打を目指すとあくまでホームランにこだわり、1983年には40本を放ち2度目の本塁打王となったことで「60本以上目指す」という自身がついたが、その後はその半分にも満たないシーズンが続き、また30代後半に入ったこともあり衰えを心配する声も出てきたのです。
そんな中1988年、40歳となった門田は突如ホームランを連発、例年にないペースで量産するとホントに60本打つんじゃないかと思ったものの、この年球団の身売り話が浮上して周囲がざわつき始め、マスコミが殺到するようになると一時神経質になったのです。結局44本塁打・125打点で2冠王となり、チームは5位だったもののMVPとなって「不惑の大砲」と評されたのでした。チームはダイエーに身売りし福岡へと移転するのだが、子供のことを考え「単身赴任は避けたい」という理由で同年オフ・阪急ブレーブスから身売りした新球団・オリックス・ブレーブスに移籍、ここでも30本以上放つなど存在感を見せつけたのでした(ちなみに1年目の終盤にブーマー・ウェルズからハイタッチを受けた際に脱臼、その後戦線離脱したことでチームは優勝を逃した。また南海時代はチームが低迷したせいかケガがあまり取り上げられることがなかったもののオリックスは優勝争いをしたせいか大々的に取り上げられた)。
1991年に古巣ホークスに復帰、翌1992年をもって引退、その際「俺は老衰」と語っている。
最後の打席は10月1日の平和台球場での近鉄戦、当時近鉄のエースだった野茂を相手にフルスイング、結果は三振だったものの最後までホームラン狙いを貫いたのでした。引退するまでにホームランを打ったピッチャーの数は184人に上る。
その後は2006年に野球殿堂入り、通算本塁打数567本は王・野村に続く3位と実績を残したがその割に知名度が低いのは昔のパ・リーグあるあるだからだろうか。常にホームランを追い求めた求道者・門田博光、今やこういうバッターが少なくなったのは時代の流れを感じます・・・。
中でも40歳にしてタイトルを獲得してかつMVPまで取るというのは偉業として相応しいでしょう。それを果たしたのは門田博光、かつて南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)で主砲として活躍したレジェンドの一人として有名です。私も結構好きなレジェンド選手の一人なんですけどね。
そんなわけで今から70年前の今日1948年2月26日は、門田博光が生まれた日です。
1948年2月26日、山口県小野田市(現・山陽小野田市)で貿易商を営む一家に生まれた門田、しかし生まれて間もなく父が事業に失敗、一家で奈良県五條市に移住、つましい家庭で育ち中学生で野球にのめり込んで本格的に始め、その後進学した天理高校では努力を重ねてレギュラーになり、天理高を卒業後は社会人のクラレ岡山に進みそこでレギュラーを掴んで活躍、1970年にドラフト2位で南海ホークスに入団したのでした。
頭角を現すようになったのは2年目、野村克也兼任監督から3番に抜擢され(当初は2番を任せる予定だったがこれは頓挫、野村が「俺の前に据えとけ」と提案した)、、この年に31本塁打・120打点を上げて打点王に輝いたのだった。
だが野村は「塁に出ろ、大振りはするな」とホームラン狙いの門田の打撃を批判、強振するごとに野村は怒ったが門田は全く聞く耳を持たなかったのです。困った野村はオープン戦で王貞治らに「ホームランはヒットの延長」とホームラン狙いのバッティングを改めさせるよう動いたものの門田は「監督は口裏合わせしてる」と苦言に聞く耳すら傾けませんでした。これが後に野村が門田は扱いづらい選手だったと語っている(他は江本孟紀・江夏豊)。
1977年オフに野村が公私混同を理由に退団してからは本気でホームラン狙いに徹し、1キロの重いバットを使って上半身ギリギリまでねじって力をためてフルスイングをしたり、ウェイトトレーニングを積極的に取り入れてパワーをつけたり、相手の研究も欠かさないなどホームランを量産する為の努力を重ねたのだったが・・・。
1979年の春季キャンプでランニング後の柔軟体操の際、アキレス腱断裂という重傷に見舞われ、野球人生最悪の危機を迎えたのだった!!(その際戸板に載せられたという)
地元の病院に入院、今までアキレス腱断裂から復活した選手はおらず絶望感すら漂ったが、ここで諦めなかった門田は手術を経てリハビリを重ね、とにかく素振りもこなすなど復活に向けて動いたのです。リハビリを続けるうちにふと思ったのは「ホームランなら足に負担がかからない」という考えでした(またこの入院中に「菜根譚」なる本に出会っている)。シーズン絶望と思われたものの、1979年シーズン終盤に復帰、そこでホームランを放ち復活を感じさせたのでした。
翌1980年にはアキレス腱断裂の後遺症から足の負担を考えて指名打者となり、同年41本を放ってカムバックを見せつけると、翌1981年には月間ホームランの新記録を達成するなど(16本)ホームランを連発、44本で初めて本塁打王に輝いたのです。
でも門田はそれで満足せず、王貞治が持っていたシーズン55本を抜き、なおかつ60本塁打を目指すとあくまでホームランにこだわり、1983年には40本を放ち2度目の本塁打王となったことで「60本以上目指す」という自身がついたが、その後はその半分にも満たないシーズンが続き、また30代後半に入ったこともあり衰えを心配する声も出てきたのです。
そんな中1988年、40歳となった門田は突如ホームランを連発、例年にないペースで量産するとホントに60本打つんじゃないかと思ったものの、この年球団の身売り話が浮上して周囲がざわつき始め、マスコミが殺到するようになると一時神経質になったのです。結局44本塁打・125打点で2冠王となり、チームは5位だったもののMVPとなって「不惑の大砲」と評されたのでした。チームはダイエーに身売りし福岡へと移転するのだが、子供のことを考え「単身赴任は避けたい」という理由で同年オフ・阪急ブレーブスから身売りした新球団・オリックス・ブレーブスに移籍、ここでも30本以上放つなど存在感を見せつけたのでした(ちなみに1年目の終盤にブーマー・ウェルズからハイタッチを受けた際に脱臼、その後戦線離脱したことでチームは優勝を逃した。また南海時代はチームが低迷したせいかケガがあまり取り上げられることがなかったもののオリックスは優勝争いをしたせいか大々的に取り上げられた)。
1991年に古巣ホークスに復帰、翌1992年をもって引退、その際「俺は老衰」と語っている。
最後の打席は10月1日の平和台球場での近鉄戦、当時近鉄のエースだった野茂を相手にフルスイング、結果は三振だったものの最後までホームラン狙いを貫いたのでした。引退するまでにホームランを打ったピッチャーの数は184人に上る。
その後は2006年に野球殿堂入り、通算本塁打数567本は王・野村に続く3位と実績を残したがその割に知名度が低いのは昔のパ・リーグあるあるだからだろうか。常にホームランを追い求めた求道者・門田博光、今やこういうバッターが少なくなったのは時代の流れを感じます・・・。