凶弾に倒れた「マハトマ」
現在ヒンズー・ナショナリズムが拡大しつつあるインド、イスラム教徒などを狙った攻撃が多発しているけど、かつてあのマハトマ・ガンジーの唱えた「非暴力・不服従」の精神が忘れられつつある状況にあることに変わりがないと言うばそれまでだが、そのガンジーはヒンズー教徒もイスラム教徒も共生共存すべきだと訴えたが、それを良しとしない勢力によって殺されるという顛末となったのは有名です。
そんなわけで今から70年前の今日1948年1月30日は、ガンジーがヒンズー・ナショナリストによって暗殺された日です。
「非暴力・不服従」を唱えてイギリスからの独立運動を指揮したガンジー、紆余曲折ありながら1947年8月15日、インドはやっとイギリスから独立したのだが、イスラム教徒の多い地域はパキスタンと東パキスタン(現在のバングラディッシュ)としてインドから分離独立、これには多数派を占めるヒンズー教徒と少数派であるイスラム教徒(それでもインド国内には1億いるとも言われている)の対立もあり、ムハンマド・アリー・ジンナーをトップとする全インド・ムスリム同盟をはじめとするイスラム教徒にしてみれば自分たちの国を持つという主張が強く、ヒンズー教徒とイスラム教徒の融和を訴えていたガンジーと対立したのでした。またジンナーはパキスタン初代総督となった。
分離独立という形となったインド、これに伴い宗教対立も激化して混乱したのだが、この状況を憂いたガンジーは断食して対立を辞めるよう訴えたのだが、ヒンズー・ナショナリストにしてみればガンジーはヒンズー教徒なのにイスラム教徒の肩を持っていると反感というか憎悪の対象にしか映りませんでした。
ヒンズー・ナショナリストにすればジンナーの台頭やパキスタン建国、さらにこれまでヒンズー教徒の苦難の歴史を利用して(ムガル帝国やイギリスに支配された歴史)不満や鬱憤も溜まっており、余計イスラムに対する不信感もあって暴動多発につながったでした。インドの宗教対立も印パ対立もなんだかんだでイギリスによる植民地政策がもたらした副産物だとは思う。
そして1948年1月30日、ガンジーはこの日お祈りをする為にニューデリーのビルラー邸を出たところヒンズー・ナショナリストの一人だったナトゥラム・ゴードセーから「ムスリムに譲歩した裏切り者!」と捨てゼリフを吐かれゴードセーが持っていた拳銃で3発撃たれたのだった!!
この際ガンジーは「おお、神様・・・!!」とつぶやき倒れ、そのまま死亡したのでした。
非暴力・不服従を唱えてインドを独立へと導いた指導者の、あまりにも残酷な結末でもあった。
ガンジー暗殺後印パ対立はさらに激化、カシミール問題もあり3度の印パ紛争にも発展してまた両国は核を保有するというところまで来てしまったが、インドにおいてガンジーに対する評価が割れてるというかイスラム教徒への反感も相まってヒンズー・ナショナリズムが台頭してイスラム教徒のみならず欧米文化や価値観への反発もあって拡大していることはインドにおいて問題になってるけど、今のナレンドラ・モディ首相がヒンズー・ナショナリストなもんだから、宗教対立は余計拡大してるという現実を草葉の陰でガンジーはどう思っているのか・・・!?
ヒンズー教以外インドに必要ないというヒンズー・ナショナリストの排外的で勝手な理屈、インドには融和や寛容の精神が根づかないのだろうかと憂いたくもなる。ガンジーが凶弾に倒れて70年、今のインドと言うかモディ首相はそれをどう捉えるのか?
そんなわけで今から70年前の今日1948年1月30日は、ガンジーがヒンズー・ナショナリストによって暗殺された日です。
「非暴力・不服従」を唱えてイギリスからの独立運動を指揮したガンジー、紆余曲折ありながら1947年8月15日、インドはやっとイギリスから独立したのだが、イスラム教徒の多い地域はパキスタンと東パキスタン(現在のバングラディッシュ)としてインドから分離独立、これには多数派を占めるヒンズー教徒と少数派であるイスラム教徒(それでもインド国内には1億いるとも言われている)の対立もあり、ムハンマド・アリー・ジンナーをトップとする全インド・ムスリム同盟をはじめとするイスラム教徒にしてみれば自分たちの国を持つという主張が強く、ヒンズー教徒とイスラム教徒の融和を訴えていたガンジーと対立したのでした。またジンナーはパキスタン初代総督となった。
分離独立という形となったインド、これに伴い宗教対立も激化して混乱したのだが、この状況を憂いたガンジーは断食して対立を辞めるよう訴えたのだが、ヒンズー・ナショナリストにしてみればガンジーはヒンズー教徒なのにイスラム教徒の肩を持っていると反感というか憎悪の対象にしか映りませんでした。
ヒンズー・ナショナリストにすればジンナーの台頭やパキスタン建国、さらにこれまでヒンズー教徒の苦難の歴史を利用して(ムガル帝国やイギリスに支配された歴史)不満や鬱憤も溜まっており、余計イスラムに対する不信感もあって暴動多発につながったでした。インドの宗教対立も印パ対立もなんだかんだでイギリスによる植民地政策がもたらした副産物だとは思う。
そして1948年1月30日、ガンジーはこの日お祈りをする為にニューデリーのビルラー邸を出たところヒンズー・ナショナリストの一人だったナトゥラム・ゴードセーから「ムスリムに譲歩した裏切り者!」と捨てゼリフを吐かれゴードセーが持っていた拳銃で3発撃たれたのだった!!
この際ガンジーは「おお、神様・・・!!」とつぶやき倒れ、そのまま死亡したのでした。
非暴力・不服従を唱えてインドを独立へと導いた指導者の、あまりにも残酷な結末でもあった。
ガンジー暗殺後印パ対立はさらに激化、カシミール問題もあり3度の印パ紛争にも発展してまた両国は核を保有するというところまで来てしまったが、インドにおいてガンジーに対する評価が割れてるというかイスラム教徒への反感も相まってヒンズー・ナショナリズムが台頭してイスラム教徒のみならず欧米文化や価値観への反発もあって拡大していることはインドにおいて問題になってるけど、今のナレンドラ・モディ首相がヒンズー・ナショナリストなもんだから、宗教対立は余計拡大してるという現実を草葉の陰でガンジーはどう思っているのか・・・!?
ヒンズー教以外インドに必要ないというヒンズー・ナショナリストの排外的で勝手な理屈、インドには融和や寛容の精神が根づかないのだろうかと憂いたくもなる。ガンジーが凶弾に倒れて70年、今のインドと言うかモディ首相はそれをどう捉えるのか?