「JFK」の「K」
阪神タイガースの歴史において最強の中継ぎ投手と言えば、昭和においては福間納氏が上がるが、こと平成においては久保田智之の名が挙がるでしょう。シーズン最多登板を記録するなどいかにどんな場面でも投げていたイメージもあるけど、ジェフ・ウィリアムス、藤川球児とのトリオは3人の頭文字を取って「JFK」なる名称で他球団を震え上がらせたものです。
そんなわけで今から36年前の今日1981年1月30日は、久保田智之が誕生した日です。
1981年1月30日、埼玉県吉見町で生を受けた久保田智之、小学3年生から野球を始めその頃はキャッチャーだったが、滑川高校時代当初はキャッチャーだったものの、監督に投手をやりたいと直訴「エースと違う投げ方をしたら使ってもいい」と言われ、トルネード投法を真似た投球をしてそこから投手人生が始まったのです。
高校3年の時に夏の全国高校野球選手権に出場(滑川高はこの大会が初出場の上、記念大会と言うことで埼玉から2校出場した為滑川高は西埼玉代表)、初戦で7回から登板しそこでトルネード投法を見せるとそこから注目を集めるようになりました。
その後常磐大学に進学し、そこから投手一本で行くと3年時に東海大学との練習試合で好投したことからプロから注目されるようになり、2002年のドラフト会議で阪神に5位指名されたのでした。
しかし入団直後の新人合同自主トレで体重過多が発覚し、罰金を取られると言う不手際もしたが、この時久保田は「活躍して倍以上に返す」と雪辱を誓ったのだった。
入団1年目からすぐ1軍入りし、先発と中継ぎの両方をこなして結果26試合に登板して5勝をマークして優勝に貢献したが、久保田自身はケガの為に日本シリーズ登板はなりませんでした。
2年目の2004年は当初先発だったものの結果を出せずすぐに中継ぎに回り、同年アテネオリンピック出場の為離脱したウィリアムスに代わってクローザーを務めたことでここから抑え投手に回ったのだった。
3年目の2005年、ウィリアムスや藤川と共にJFKなるリリーフトリオを結成し久保田は抑えとして試合を締めくくる大事な役割を担いました。同年9月7日の中日戦では9回裏大ピンチの場面でマウンドにいたが、岡田彰布監督から「無茶苦茶放ったれ!!」と発破をかけられ連続三振でピンチを切り抜けその後チームは延長戦で勝ち越して勝利、そこからチームは優勝に驀進し9月29日の甲子園球場での巨人戦では胴上げ投手にもなったが、一方で安定感に欠ける場面も目立ったのだった(現に胴上げ投手となった巨人戦では連打の上に暴投で1点を献上している)。
その後もJFKの一角として試合を締めくくる役割を果たし、5年目の2007年には先発陣の不振から終盤で投入されるケースが多く、終わってみれば90試合に登板しNPB記録を更新、46ホールド、55ホールドポイントとそれぞれNPB記録を更新するなどチームに欠かせない存在になったのでした(同年最優秀中継ぎ投手に選出された)。また同年には母校・常磐大学から特別表彰された。
2008年は2年連続最優秀中継ぎ投手になるも成績は前年より低下、2009年は長年の登板過多により故障、シーズンを棒に振る結果となった。
2010年にチーム最多の71試合に登板して安定感を見せたことから復活したものの、翌年からは成績が低下、さらに最盛期には157キロあった球速も130キロ台にまで低下、2014年は1軍登板がなく故障続きだったことからこのままではチームに迷惑がかかると言うことで現役引退を表明、球団に残って昨年までバッティングピッチャーを務め、今年からは関東地区スカウトに転身して現在に至ります。
岡田政権の象徴である「JFK」の一人として躍動した久保田智之、久保田を彷彿させる中継ぎ投手が阪神からまた出てほしいものだ。
そんなわけで今から36年前の今日1981年1月30日は、久保田智之が誕生した日です。
1981年1月30日、埼玉県吉見町で生を受けた久保田智之、小学3年生から野球を始めその頃はキャッチャーだったが、滑川高校時代当初はキャッチャーだったものの、監督に投手をやりたいと直訴「エースと違う投げ方をしたら使ってもいい」と言われ、トルネード投法を真似た投球をしてそこから投手人生が始まったのです。
高校3年の時に夏の全国高校野球選手権に出場(滑川高はこの大会が初出場の上、記念大会と言うことで埼玉から2校出場した為滑川高は西埼玉代表)、初戦で7回から登板しそこでトルネード投法を見せるとそこから注目を集めるようになりました。
その後常磐大学に進学し、そこから投手一本で行くと3年時に東海大学との練習試合で好投したことからプロから注目されるようになり、2002年のドラフト会議で阪神に5位指名されたのでした。
しかし入団直後の新人合同自主トレで体重過多が発覚し、罰金を取られると言う不手際もしたが、この時久保田は「活躍して倍以上に返す」と雪辱を誓ったのだった。
入団1年目からすぐ1軍入りし、先発と中継ぎの両方をこなして結果26試合に登板して5勝をマークして優勝に貢献したが、久保田自身はケガの為に日本シリーズ登板はなりませんでした。
2年目の2004年は当初先発だったものの結果を出せずすぐに中継ぎに回り、同年アテネオリンピック出場の為離脱したウィリアムスに代わってクローザーを務めたことでここから抑え投手に回ったのだった。
3年目の2005年、ウィリアムスや藤川と共にJFKなるリリーフトリオを結成し久保田は抑えとして試合を締めくくる大事な役割を担いました。同年9月7日の中日戦では9回裏大ピンチの場面でマウンドにいたが、岡田彰布監督から「無茶苦茶放ったれ!!」と発破をかけられ連続三振でピンチを切り抜けその後チームは延長戦で勝ち越して勝利、そこからチームは優勝に驀進し9月29日の甲子園球場での巨人戦では胴上げ投手にもなったが、一方で安定感に欠ける場面も目立ったのだった(現に胴上げ投手となった巨人戦では連打の上に暴投で1点を献上している)。
その後もJFKの一角として試合を締めくくる役割を果たし、5年目の2007年には先発陣の不振から終盤で投入されるケースが多く、終わってみれば90試合に登板しNPB記録を更新、46ホールド、55ホールドポイントとそれぞれNPB記録を更新するなどチームに欠かせない存在になったのでした(同年最優秀中継ぎ投手に選出された)。また同年には母校・常磐大学から特別表彰された。
2008年は2年連続最優秀中継ぎ投手になるも成績は前年より低下、2009年は長年の登板過多により故障、シーズンを棒に振る結果となった。
2010年にチーム最多の71試合に登板して安定感を見せたことから復活したものの、翌年からは成績が低下、さらに最盛期には157キロあった球速も130キロ台にまで低下、2014年は1軍登板がなく故障続きだったことからこのままではチームに迷惑がかかると言うことで現役引退を表明、球団に残って昨年までバッティングピッチャーを務め、今年からは関東地区スカウトに転身して現在に至ります。
岡田政権の象徴である「JFK」の一人として躍動した久保田智之、久保田を彷彿させる中継ぎ投手が阪神からまた出てほしいものだ。