「ポーランド人民共和国」と言う名称が消えた

東欧革命においてその「号砲」を発したのはポーランドハンガリー、前者は東欧で戦後初めて非共産主義政権となり、後者はヨーロッパを2分していた「鉄のカーテン」をこじ開けたことはつとに有名ですが、最初に動いたのはポーランド、今から27年前の今日1989年9月7日は、ポーランド人民共和国(当時)において非共産党系政権が誕生し正式国名が再びポーランド共和国になった日です。

第2次大戦後ソ連によって共産主義国家となったポーランド、共産主義国家になったことで正式国名はポーランド人民共和国となり、ソ連の「衛星国」としてマルクス・レーニン主義に基づく国家となったのです。
当初はスターリニズム(スターリン主義)に基づく社会基盤を築き、カトリック教会を否定したり集団農場化を推進するなどしたものの後に廃止、しかしワルシャワ条約機構に加盟していたことからソ連などと共謀して軍を派遣したり、暴力的な手法で鎮圧することを厭わないやり方を取っていたのでした。

1970年代に入ると経済の悪化に伴い食料品などの物価が上昇、国民の不満が溜まるようになり暴動やストが頻発しますが、共産党政権は武力を用いて鎮圧、さらにアメリカや西ドイツから借金を重ねたことで経済が余計悪化、さらに80年代に入ると共産党政権は戒厳令を敷いて国民の締め付けを強化、それに反発するかのようにレフ・ワレサらは独立自主管理労働組合「連帯」を立ち上げたのでした。
連帯は共産党政権と対峙したが、折しもポーランド人初のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世がポーランドを訪問したことで共産党政権のトップだったヴォイチェフ・ヤルゼルスキは強硬だった態度を改めてその後戒厳令を解除したものの、社会主義内の枠内で経済改革をしたことで連帯から反発を受けたのだった。

1985年にソ連でミハイル・ゴルバチョフが書記長に就任、改革を薦めるペレストロイカの影響もありソ連の配下にあった東欧諸国に民主化の動きが再び起こったのです、無論ポーランドにも及んだ。
ワレサ率いる連帯は1989年2月に共産党政権に対して円卓会議を持ちかけ、その後東欧で初となる自由選挙を実施しワレサ率いる連帯が圧勝し、東欧で初めて非共産主義勢力が政権を握ったのでした。ただ労働党勢力と連立を組んでヤルゼルスキを暫定大統領にして新たな一歩を踏んだのです。急激に民主化すれば混乱すると言う懸念からヤルゼルスキを暫定的にトップに就かせたのは半ば「円満」的な感がする。

その後共産主義やスターリニズムに基づく憲法を大幅に改正し、1989年9月7日に連帯の幹部の一人であるタデウシュ・マゾヴィエツキを首相に選任、これに伴い正式国名をポーランド人民共和国からポーランド共和国に戻したのだった。平和的に政権を移譲したこともまた大きい。
翌1990年に国民が直接大統領を選ぶ大統領選挙を初めて実施し、ワレサが勝利して大統領となり、そこからポーランド社会を変えていったのです。

再び自由を手にしたポーランド、幾度となく苦難の歴史を歩んできた苦しみがあるだけにまたそれを乗り越えたんだから(ソ連によって衛星国にさせられたこともまた苦しみでもある)、そのきっかけとなったのは連帯とヨハネ・パウロ2世の功績だけど、そのヨハネ・パウロ2世に直接会ったことで態度を変えたヤルゼルスキの評価も大きいでしょう。ワレサ、ヨハネ・パウロ2世、ヤルゼルスキ、ポーランド現代史において欠かすことの出来ない人物であることは確かです。

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