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「グラウンドにはゼニが落ちている」

プロ野球史に残る名監督の一人であり、また南海ホークスと言う球団を語る上で欠かすことの出来ない人物と言えば鶴岡一人、それだけじゃない、現在のプロ野球の礎を作った人物としてもつとに有名です。
スカウト制度やデータ野球、ファーム制度の導入など現在のプロ野球界では当たり前となっているこれらのものも、鶴岡がはしりなのです。
野球だけじゃなく選手の生活の面倒を見るなど「親分」と呼ばれ選手から慕われた人情さ、何かあればすぐに「このバカたれが!」と一喝する厳しさを併せ持った人間性もまた魅力です。
そんなわけで今から100年前の今日1916年7月27日には、鶴岡一人が生まれた日です。

1916年7月27日、広島県呉市で生を受けた鶴岡一人、同郷では藤村富美男氏とライバルでしのぎを削るなど意識したが、その後鶴岡は広島商業に進学し、選抜中等野球大会を制覇すると、優勝特典でアメリカ遠征に招聘、そこで後に戦友となるキャピー原田と出会ったのでした。その後も広島商で実績を上げ法政大学に進学、法大では1年生にしてサードのレギュラーとなり華麗な守備でファンを魅了、法大の顔となったのです。

法大を卒業した1939年、大卒初のプロ野球選手として南海軍に入団するが当時のプロ野球は世間からいい目で見られておらず、それを知った法大OB会は「職業野球に入るとは何事だ」と激怒し除名するとまで鶴岡を批判したが「好きな野球を思い切りやって戦場に行きたい」と言って批判をかわしたのです。奇しくもあの時代、いつ戦争になってもおかしくなかっただけに兵隊に取られたら生きて帰ってくるか分からないって思いもあったんでしょう。

南海軍に入団するとルーキーながらリーダーシップを発揮し、また本塁打王まで獲得するなど実力を見せつけたのです。

翌1940年、軍隊から召集令状を受け陸軍放射砲連隊に入隊、5年間この部隊に席を置きそこで200人の部下を持つ中隊長として指導力を発揮し、結果としてこれが指導者としてのノウハウを学ぶきっかけにもなったのです。この期間中に最初の夫人となる山本文子を結婚し山本性に変えている。

終戦翌年の1946年に復員、南海からすぐに選手兼任監督の申請を受けこれを快諾、戦後の混乱期の中選手の生活の面倒まで見たり自ら鍬を持って合宿所の近くを水田にして米を作り、配給制度に備えたのでした。
「家族持ちが優先や」とこの時鶴岡は語っている。
この年は機動力野球を掲げ巨人を抑えて優勝と言う結果を残し(2リーグ制となるのは1950年から)、1949年には今の育成枠に当たるファーム制度を立ち上げ、自ら新人を発掘したりスカウト制度を立ち上げるなどプロ野球改革を断行したのです。また本拠地である大阪球場の建設にも貢献した。

1952年に現役を引退し翌年からは68年に退任するまで南海ホークスを率いてリーグ優勝11回、日本一2回と言う実績もさることながら1773勝を上げこれは歴代監督1位の勝利数を誇っています。選手たちの意識を高める為に「グラウンドにはゼニが落ちている、人が練習を2倍してたら3倍やれ、ゼニが欲しけりゃ練習せえ」と口酸っぱく説きました。

スカウト力に秀でており、野村克也をはじめ岡本伊三美、広瀬叔功などテスト生から、当時大学のスター選手だった大沢昌芳(後の啓二)・杉浦忠・穴吹義雄、さらにキャピー原田の仲介でケント・ハドリ、ジョー・スタンカと言った外国人選手を入団させ、結束力でチームを率いたことにより南海を常勝チームにしただけでなく、ファンを楽しませる為に戦力の入れ替えを頻繁に行い「100万ドルの内野陣」「400フィート打線」と言うキャッチフレーズを謳うなど人気を呼びました。南海ホークスと言えば不人気球団のイメージが強いが、当時は考えられない人気球団だったんです。
1956年にハワイキャンプを実施、そこで野村の才能を見出したのは有名だが、翌年には文子夫人が急逝すると言う不幸に遭ったのでした・・。

ただこれまでも巨人に日本シリーズで挑みながらことごとく敗れ「何回やっても勝てない南海」と揶揄されただけでなく、当時ライバルだった西鉄ライオンズに先を越されるなど悔しさもあったが、それを晴らしたのが1959年の日本シリーズ、杉浦の4連投・4連勝で初めて巨人を下して日本一となり、その後の御堂筋パレードで「ワシは日本一幸せや男や」と喜びを爆発させ、前年再婚した一子夫人から亡き前文子夫人の位牌を差し出され、それと相まって号泣したのです。

1962年は開幕から躓いたことで「指揮官が悪ければ部隊は全滅する」と言う言葉を残し休養、同年8月に復帰するが、この表現はいかにも戦争経験者らしいと言うか、今だったらどう思われるのやら。
1965年は野村が三冠王になりリーグ優勝するも日本シリーズでは巨人に敗れ、この年にオフに勇退を決意し蔭山和夫に監督の座を譲るハズだったが、何とその蔭山が急死、チームに不穏な空気が漂いまた鶴岡復帰説まで出たのだから再び監督となったのです「もう一度ユニフォームを着る、これが最後のご奉公や」(同年野球殿堂入りしている)

急遽復帰してから3年チームを率いて68年オフ、鶴岡は23年に及ぶ監督生活に幕を下ろしたのです。
「南海を語ることは鶴岡を語ることであり、鶴岡を語ることは南海を語ることでもある」

晩年は蔭山急死と言う悲劇に苛まれるも、その後待っていたのは野村との確執でした。
その後野村がプレーイングマネージャーとなり安定した成績を残すも、1977年シーズン終盤に公私混同を理由に解任された際「鶴岡元老にぶっ飛ばされた」なる言葉を野村が吐いたことで対立が表面化、その後狂言だったことが発覚するも、野村との関係は複雑なものとなったのです。これについて野村は鶴岡が広瀬や杉浦には普通に接するのに自分にはキツく接することへの不満もあったが・・・。奇しくも鶴岡イズムを引き継いだのはその野村だった。

その後はNHK野球解説者・評論家として活動し、少年野球の普及にも貢献し、川上哲治と並んで球界のドンとして存在感を示したのです。
1988年に南海はスーパーマーケットのダイエーに球団を身売り、この際「時代の流れじゃ」とコメント、同年10月15日に行われた大阪球場最終試合で「チームは阪急・近鉄でまた来ますので変わらず応援してやってください」とグラウンドでスピーチしたのでした。

1991年にプロ野球関係者で初となる叙勲を受賞しますが、その後2000年3月7日、鶴岡一人は心不全により83歳の生涯を終えたのでした。翌日には本願寺津村別院で葬儀が行われ、杉浦などが鶴岡に最後の別れを告げました。この時杉浦は弔辞にて「親分、ここから御堂筋が見えますか」と読んだのは有名。
しかしこの場に野村の姿はなく、やはり鶴岡とわだかまりがあったんじゃと勘ぐられたのでした。この時杉浦は「過去のわだかまりを水に流して態度を改めたらどうだ」と不満を露わにした。

プロ野球史に燦然と輝く存在感を示している鶴岡一人、鶴岡の残した功績は現在のプロ野球界に大きな足跡となって至っています。川上哲治以上に名将と言われてもおかしくない実績もさることながら、人情味と厳しさ、熱意を併せ持った名将としても歴史の名を残すべきです(西本幸雄も当てはまるが)。伝記漫画で取り上げる人物に値するけども。

「グラウンドにはゼニが落ちている」は有名な格言だが、これは野球のみならず一般社会においても必要な格言ですけどね。選手の面倒まで見て温情溢れる姿勢が親分と呼ばれる理由だが、今の時代このようなリーダーは必要だろうか。

theme : プロ野球
genre : スポーツ

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