プラティニと並ぶフランス・サッカーの偉大な存在

 ジネディーヌ・ジダン、世界最高のサッカー選手のひとりとしてもつとに有名ですが、その影響力はサッカーに留まらずフランス社会にまで強い影響力を持つほどです。なぜならば彼はアルジェリアにルーツを持ち、移民国家でもあるフランスの象徴としても有名な存在です。そんなわけで今から43年前の今日1972年6月23日は、ジネディーヌ・ジダンが生まれた日です。

 1972年6月23日、フランス南部・マルセイユにて生を受けたジネディーヌ・ジダン、両親はアルジェリア戦争が勃発する前にフランスに移住したアルジェリア移民であり、既にフランス国籍を取っていることからアルジェリア系フランス人と言うことになります。
「キャプテン翼」の影響でサッカーを始め、友人らとストリートサッカーに明け暮れるなど、本格的にサッカーにのめり込んだジダン、9歳になると地元のアマチュアクラブに引き抜かれ、磨いた才能がさらに開花して頭角を現すと、14歳の頃にはプロヴァンス選抜チームの練習を視察したASカンヌのスカウトの目に止まり、カンヌにスカウトされたのです。

 親元を離れてカンヌへと渡ったジダン、16歳にしてトップクラブに入団するものの当初は若手を起用する余裕などなくチームの残留が決まったシーズン終盤のある試合にて途中出場ながらプロデビューを果たすと、いきなりゴールポスト直撃のシュートを放つなど、その実力をアピールしメキメキ頭角を表しフランス・サッカー界にセンセーショナルなデビューを果たしたのです。
 1992年にはカンヌからボルドーへと移籍し、そこでも活躍しチームをUEFAカップ出場及び常連へと導く原動力にもなるなど瞬く間にその名は知れ渡り、1994年にはフランス代表にも選出されデビューを果たしたのです(同年結婚)。

 1996年にイタリアのユベントスに移籍、ユベントス関係者曰く「プラティニの後継者」と言う触れ込みで獲得に至ったわけだが、そこでも主力となり、セリエA優勝こそするもののUEFAチャンピオンズリーグでは振るわない時期が続いたのです。
 そんな中1998年フランスで開催されたワールドカップに出場、これまで代表で結果を残すなど、既にチームの司令塔として代表での地位を固めていたジダン、初戦の南アフリカ戦で勝利するも、続くサウジアラビア戦で相手選手を踏みつけてレッドカードを喰らい、2試合出場停止となるもののチームは続くデンマーク戦で勝利して決勝トーナメントに進出、フランスは勝ち上がりジダンもチームに復帰するとピッチ上で躍動、決勝戦へと駒を進め相手はブラジル、そこで2得点を上げてフランスの初優勝に貢献、この活躍で全世界にその名を轟かせ、同年バロンドールとFIFA最優秀選手まで獲得するなど、1998年は充実した年になったのです。この活躍で移民国家=フランスの象徴にまでなったのだから、ジダンの存在感はサッカーを超えたものとなった瞬間でした。
 2000年はオランダ・ベルギー共催の欧州選手権でもフランスを優勝に導くなど、代表での存在感は確固たるものとなったのだった。

 ただ同年のUEFAチャンピオンズリーグでは暴力行為を起こし出場停止処分を喰らい、かつチームは予選で敗退する屈辱、サポーターから批判を浴び、また当のジダンもイタリアでのプレーに飽きたのか、移籍を仄めかすなどユベントスとの関係が悪化する事態になるが、夫人がスペイン人だったことで母国で暮らしたい夫人の要望が原因とも言われてるものの、その願いが叶う形で2001年にレアル・マドリーへと移籍したのです。その額は8000万ユーロ、前年バルセロナから電撃移籍したルイス・フィーゴの額を上回る数字と言いますから、フロレンティーノ・ペレス会長はまたも大物を獲得したと実感したのも無理はない。

 マドリーではカンテラ出身選手とスター選手が共存する「銀河系軍団」の攻撃の要としてチームを牽引、移籍1シーズン目ではチャンピオンズリーグ優勝を経験、その決勝戦で上げたボレーシュートはサッカー史上最も素晴らしいゴールと評されたのだから、実に素晴らしい、これにはユベントス時代に度々優勝を逃しただけに、チャンピオンズリーグ制覇に並々ならぬ意欲があったのも影響してますね。翌2002年はワールドカップにおいて直前に負傷しいいところなくチームは敗退したが、クラブでは3冠を達成した(リーガ、チャンピオンズリーグ、インターコンチネンタルカップ)。

 2004年は同年の欧州選手権にも出場したが、見せ場があったのはグループリーグ初戦のイングランド戦だけで、あとは見せ場を作ることが出来ずにベスト8、大会後「若手にチャンスを」と言う理由で代表引退を宣言したのだが・・・。
 翌2005年、マドリーでのプレーに専念していたものの、ドイツ・ワールドカップ予選でフランスが予選敗退の危機に直面する事態となり、サッカー界のみならず政界までもジダンの代表復帰を訴えるなど、フランス中を揺るがすニュースにまでなったのです。既に代表を引退していたリリアン・テュラムやクロード・マケレレと共に代表に復帰し、チームをけん引して破竹の勢いで勝ち進みドイツ・ワールドカップ行きを決めたのだった。
 政治家まで動くと言うのは、いかにサッカーを超えた存在であることを物語るものです。

 大会後に現役を引退すると宣言したジダン、グループリーグこそ見せ場はなかったものの(韓国戦でイエローカードをもらい、その後途中交代を命じられ、それを不服としたのかロッカールームのドアを蹴ると言う行動にも出たが、蹴られたドアは「偉大な選手に蹴られたもの」として大事に保存されている)、決勝トーナメントへと駒を進めると、準々決勝のブラジル戦でティエリ・アンリのゴールをアシストしたのをきっかけに、健在ぶりをアピールしたのでした。決勝に進み相手はイタリア、現役最後となる試合だけに優勝して有終の美を飾ろうと意気込みましたが・・・。
 前半7分にフランスはPKを獲得し、それをジダンが決めて先制するものの、その後イタリアに同点に追いつかれると試合はお互い譲らずの展開となり、ジダンもイタリアのディフェンス陣にマークされたのだった。そして延長戦に突入、その後半であの事件が起こったのだった!!
 延長後半5分、イタリアのディフェンダー、マルコ・マテラッツィから執拗にマークされたジダン、その後ジダンが声をかけたが、ボールは自陣へと戻りジダンも自陣へと戻るが、そこでマテラッツィが何を言ったか不明だが、突然マテラッツィの方へと向かい、何と!! マテラッツィに頭突きを食らわせると言う行為に出たのだった!! 当然レッドカード、ジダンは自身最後の試合を大きく汚したのだから、晩節を汚すとはこのことを言います。残念ながら準優勝に終わるものの、この大会のMVPになったはいいが、この事件の余波は当面治まらなかったのです。マテラッツィが何を言ったかは定かではないが、おそらくジダンの家族を侮辱したのか、イスラム教徒を侮辱するようなものだったのか、真相は分からない。

 この行為でFIFAから罰金、さらに社会奉仕活動を余儀なくされたが、その後は古巣マドリーのクラブアドバイザーに就任、以降はスポーツ・ディレクター、カンテラ指導者へとなり、Bチームの監督になるもライセンスを所持しておらず罰則を受けたのだった。

 フランス・サッカーのみならず社会的な影響が大きいジダン、1990年代後半から2000年代前半にかけて世界最高とまで評されるなどその実績は大きいし、マルセイユ・ルーレットなるプレースタイルを駆使して観衆を沸かせるなど、ピッチ内外で強い存在感を示してますが、一方で自身最後の試合における頭突き事件のイメージなどから暴力的な印象を持たれており、評価は割れますが、いずれにせよ、ジダンはサッカー界の名選手の一人であることは間違いない。

theme : サッカー
genre : スポーツ

comment

管理者にだけメッセージを送る

プロフィール

アジシオ次郎

Author:アジシオ次郎
FC2ブログへようこそ!

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
最新コメント
最新トラックバック
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード