ヴィリー・ブラントを知っていますか?
日本の戦後補償問題を巡る点について、対比として挙げられるのがドイツですが、そのドイツが戦後補償問題に対し積極的に行うきっかけと作った人物がヴィリー・ブラント旧西ドイツ首相です。今から16年前の今日(1992年10月8日)はそのブラントが亡くなった日です。
ヴィリー・ブラントは1913年12月18日に、ドイツ北東部のリューベックで生まれました。本名はヘルベルト・エルンスト・カール・フラームでいい、ヴィリー・ブラントと言う名は後に名乗った名前です。また私生児でありました。育ての親である母方の祖父がSPD(ドイツ社会民主党)員だった影響で10代前半には同党の地元機関紙に投稿し1930年にSPDに入党し、地元の実業学校に通い2年後にアビトゥーア(中欧圏における中等教育修了資格ないし高等教育進学資格。ドイツでは中等教育終了資格を意味する《日本では高校卒業資格に当る》)に合格、その間も地元機関紙に繰り返し寄稿し、当時の編集長に影響を受けるも、少年時代からブラントは急進左派に属していた為、SPDと決別しSAP(ドイツ社会主義労働者党)に入党、これによりSPDからの奨学金が打ち切られた為、ブラントは地元の造船所で働くこととなった。
だが1933年にヒトラー率いるナチスが政権を握ると、SAP活動が禁止されブラントは地下で反ナチス活動を行うのだった。翌年ノルウェーに渡り党組織の債権に従事しジャーナリストとして活動する一方で政治学を学ぶのだった。当時の偽名だったヴィリー・ブラントと言う名を後に彼は正式な名前とし政治家としての名乗りに利用した。1938年にナチスにより国籍を剥奪され、第2次大戦中の1940年にナチスがノルウェーに侵攻、占領するとブラントは逮捕され捕虜となるが正体がばれずあっさりと釈放され、スウェーデンに亡命、ここで亡命したSAPとSPDの再接近に務め、同じく亡命していたユダヤ系オーストリア人ブルーノ・クライスキーと知り合い、彼は後にブラントと同時期にオーストリア首相となり、終生の友人のなるのだった。
終戦後の1945年にはノルウェー紙の記者としてドイツに帰国、ニュルンベルク裁判を取材し、翌1946年には故郷リューベックに戻りSPDの再建に従事し1948年にはナチスによって剥奪されていたドイツ国籍を回復するのだった。
1949年、ベルリン選挙区から出馬し政界に進出、翌1950年には西ベルリン市議会議員に当選し、1955年には西ベルリン市議会議長、1957年には西ベルリン市長となるなどブラントはめきめきと出世します。しかし翌1958年にはベルリン危機が発生、1961年には東ドイツ政府が「ベルリンの壁」を建設し、西ベルリン市長としてその対応に追われ、同年当時のアメリカのケネディ大統領が西ベルリンを訪問しブラントと会見、その際ブラントは「私はベルリン人だ」と述べる演説を行い、ブラントの人気は瞬く間に跳ね上がりSPDは躍進するのでした。
SPD内でのブラントの支持と人気は高まり、1961年に行われた選挙でブラントはSPDの連邦首相となりました。だがその選挙期間中にCDU(キリスト教民主同盟)の候補で当時現職のコンラート・アデナウアーから私生児であることと亡命経歴を攻撃されるなど逆風も味わいましたが、この選挙でSPDは躍進したものの他党との連立に失敗し政権奪取には失敗、1962年にSPD副党首、1964年には同党党首に就任。翌1965年の連邦議会選挙でCDUに敗北するが、翌1966年にCDU出身のルートヴィヒ・エアフルトの連立政権が失敗に終わるとSPDとCDUの連立に成功し、大連立政権を樹立し、ゲオルク・キージンガー内閣の元ブラントは外相兼副首相に就任、これに伴い西ベルリン市長を辞任しました。
1969年の連邦議会選挙でSPDは勝利し、SPDと自由民主党の連立政権を樹立し、ブラントは西ドイツ初のSPD出身首相となりました。
ブラントが最初に着手したのは東ドイツやソ連などの東側諸国との国交回復を推進する「東方外交」でした。その象徴となったのが、翌1970年にポーランドを訪問し、ワルシャワのユダヤ人ゲットー跡地で跪き、ナチスによるユダヤ人虐殺に対して謝罪の意を示したのでした。これにより西ドイツはポーランドと国交を回復し、同年には東ドイツのヴィリー・シュトフ首相と会談し、初の東西ドイツ首脳会談を実現させ、この功績が認められ翌1971年にノーベル平和賞を受賞しました。翌年には東ドイツと東西ドイツ基本条約を結び、お互いを国家として承認し、今日ではブラントの東方外交が東欧革命とドイツ再統一の基礎になったと評価する声があるが、当時は保守派から非難も受けました。また1973年にはドイツの首相としてユダヤ人国家イスラエルを訪問するなど積極的に戦後補償問題に取り組みました。
しかし内政では「より一層の民主化」のもと行政・教育改革を行ったものの当時起きたオイルショックの影響もあり実現したものはあまりありませんでした。そんなブラントに見切りをつけSPDからCDUに鞍替えする党員も続出し、国内は混乱しました。
さらに1974年、個人秘書だったギュンター・ギヨームがなんと東ドイツの国家保安省(シュタージ)のスパイだったことが発覚し(ギヨーム事件)、ギヨームが逮捕されたのに伴い、ブラントはその責任を取って首相職を辞任、財務省だったヘルムート・シュミットにその座を譲るのでした。
そんなブラントですが、在職中にも良くない噂が絶えず、野党やマスコミに攻撃され健康状態が悪化するほどの精神状態となったが、ギヨーム事件の責任を取って辞任したことでブラントへの攻撃は収まったと言われているが何とも皮肉であろう。
首相職を辞任したブラントはその後もSPD党首として政界に残り(1987年に健康上の理由で退任)、その後もミハイル・ゴルバチョフやエーリッヒ・ホーネッカーなど東側の首脳と会談し緊張緩和などに貢献、1990年に起きた湾岸危機には単身イラクに乗り込み、サダム・フセインと直談判し人質となっていた在留ドイツ人の解放、帰国に貢献するなど国際的な活躍を見せました。
しかし1991年にブラントは腸にポリープが見つかり除去手術をするがガンが多くの多臓器に転移しており、翌1992年に手術した時にはもはや手遅れ隣予断を許さない状況となっていたのでした。ブラントは残された時間を家族と過ごす為退院しウンケルの自宅に隠棲しましたが、1992年10月8日、ヴィリー・ブラントは78年の生涯を閉じました。
その後ドイツ政府はブラントの国葬を行いました。現在ベルリンにあるSPD本部ビルはブラントの功績を称え"Willy-Brandt-Haus"と名づけ、またドイツの各都市にはブラントの名を冠した通りも多くあり、海外にもある。
日本の戦後補償問題を巡ってはよくドイツを引き合いに出す政治家や知識人もいるが、そのドイツにおいてその基礎を作ったヴィリー・ブラント。彼の行動はドイツとポーランドの和解だけでなく、ドイツが国際社会において信用を取り戻す為、ナチス犯罪に真っ向から向き合い謝罪をすることでドイツの国際的な評価を取り戻すための行動でした。そんな彼の功績は未だに高い評価を受けているのではないだろうか?
ヴィリー・ブラントは1913年12月18日に、ドイツ北東部のリューベックで生まれました。本名はヘルベルト・エルンスト・カール・フラームでいい、ヴィリー・ブラントと言う名は後に名乗った名前です。また私生児でありました。育ての親である母方の祖父がSPD(ドイツ社会民主党)員だった影響で10代前半には同党の地元機関紙に投稿し1930年にSPDに入党し、地元の実業学校に通い2年後にアビトゥーア(中欧圏における中等教育修了資格ないし高等教育進学資格。ドイツでは中等教育終了資格を意味する《日本では高校卒業資格に当る》)に合格、その間も地元機関紙に繰り返し寄稿し、当時の編集長に影響を受けるも、少年時代からブラントは急進左派に属していた為、SPDと決別しSAP(ドイツ社会主義労働者党)に入党、これによりSPDからの奨学金が打ち切られた為、ブラントは地元の造船所で働くこととなった。
だが1933年にヒトラー率いるナチスが政権を握ると、SAP活動が禁止されブラントは地下で反ナチス活動を行うのだった。翌年ノルウェーに渡り党組織の債権に従事しジャーナリストとして活動する一方で政治学を学ぶのだった。当時の偽名だったヴィリー・ブラントと言う名を後に彼は正式な名前とし政治家としての名乗りに利用した。1938年にナチスにより国籍を剥奪され、第2次大戦中の1940年にナチスがノルウェーに侵攻、占領するとブラントは逮捕され捕虜となるが正体がばれずあっさりと釈放され、スウェーデンに亡命、ここで亡命したSAPとSPDの再接近に務め、同じく亡命していたユダヤ系オーストリア人ブルーノ・クライスキーと知り合い、彼は後にブラントと同時期にオーストリア首相となり、終生の友人のなるのだった。
終戦後の1945年にはノルウェー紙の記者としてドイツに帰国、ニュルンベルク裁判を取材し、翌1946年には故郷リューベックに戻りSPDの再建に従事し1948年にはナチスによって剥奪されていたドイツ国籍を回復するのだった。
1949年、ベルリン選挙区から出馬し政界に進出、翌1950年には西ベルリン市議会議員に当選し、1955年には西ベルリン市議会議長、1957年には西ベルリン市長となるなどブラントはめきめきと出世します。しかし翌1958年にはベルリン危機が発生、1961年には東ドイツ政府が「ベルリンの壁」を建設し、西ベルリン市長としてその対応に追われ、同年当時のアメリカのケネディ大統領が西ベルリンを訪問しブラントと会見、その際ブラントは「私はベルリン人だ」と述べる演説を行い、ブラントの人気は瞬く間に跳ね上がりSPDは躍進するのでした。
SPD内でのブラントの支持と人気は高まり、1961年に行われた選挙でブラントはSPDの連邦首相となりました。だがその選挙期間中にCDU(キリスト教民主同盟)の候補で当時現職のコンラート・アデナウアーから私生児であることと亡命経歴を攻撃されるなど逆風も味わいましたが、この選挙でSPDは躍進したものの他党との連立に失敗し政権奪取には失敗、1962年にSPD副党首、1964年には同党党首に就任。翌1965年の連邦議会選挙でCDUに敗北するが、翌1966年にCDU出身のルートヴィヒ・エアフルトの連立政権が失敗に終わるとSPDとCDUの連立に成功し、大連立政権を樹立し、ゲオルク・キージンガー内閣の元ブラントは外相兼副首相に就任、これに伴い西ベルリン市長を辞任しました。
1969年の連邦議会選挙でSPDは勝利し、SPDと自由民主党の連立政権を樹立し、ブラントは西ドイツ初のSPD出身首相となりました。
ブラントが最初に着手したのは東ドイツやソ連などの東側諸国との国交回復を推進する「東方外交」でした。その象徴となったのが、翌1970年にポーランドを訪問し、ワルシャワのユダヤ人ゲットー跡地で跪き、ナチスによるユダヤ人虐殺に対して謝罪の意を示したのでした。これにより西ドイツはポーランドと国交を回復し、同年には東ドイツのヴィリー・シュトフ首相と会談し、初の東西ドイツ首脳会談を実現させ、この功績が認められ翌1971年にノーベル平和賞を受賞しました。翌年には東ドイツと東西ドイツ基本条約を結び、お互いを国家として承認し、今日ではブラントの東方外交が東欧革命とドイツ再統一の基礎になったと評価する声があるが、当時は保守派から非難も受けました。また1973年にはドイツの首相としてユダヤ人国家イスラエルを訪問するなど積極的に戦後補償問題に取り組みました。
しかし内政では「より一層の民主化」のもと行政・教育改革を行ったものの当時起きたオイルショックの影響もあり実現したものはあまりありませんでした。そんなブラントに見切りをつけSPDからCDUに鞍替えする党員も続出し、国内は混乱しました。
さらに1974年、個人秘書だったギュンター・ギヨームがなんと東ドイツの国家保安省(シュタージ)のスパイだったことが発覚し(ギヨーム事件)、ギヨームが逮捕されたのに伴い、ブラントはその責任を取って首相職を辞任、財務省だったヘルムート・シュミットにその座を譲るのでした。
そんなブラントですが、在職中にも良くない噂が絶えず、野党やマスコミに攻撃され健康状態が悪化するほどの精神状態となったが、ギヨーム事件の責任を取って辞任したことでブラントへの攻撃は収まったと言われているが何とも皮肉であろう。
首相職を辞任したブラントはその後もSPD党首として政界に残り(1987年に健康上の理由で退任)、その後もミハイル・ゴルバチョフやエーリッヒ・ホーネッカーなど東側の首脳と会談し緊張緩和などに貢献、1990年に起きた湾岸危機には単身イラクに乗り込み、サダム・フセインと直談判し人質となっていた在留ドイツ人の解放、帰国に貢献するなど国際的な活躍を見せました。
しかし1991年にブラントは腸にポリープが見つかり除去手術をするがガンが多くの多臓器に転移しており、翌1992年に手術した時にはもはや手遅れ隣予断を許さない状況となっていたのでした。ブラントは残された時間を家族と過ごす為退院しウンケルの自宅に隠棲しましたが、1992年10月8日、ヴィリー・ブラントは78年の生涯を閉じました。
その後ドイツ政府はブラントの国葬を行いました。現在ベルリンにあるSPD本部ビルはブラントの功績を称え"Willy-Brandt-Haus"と名づけ、またドイツの各都市にはブラントの名を冠した通りも多くあり、海外にもある。
日本の戦後補償問題を巡ってはよくドイツを引き合いに出す政治家や知識人もいるが、そのドイツにおいてその基礎を作ったヴィリー・ブラント。彼の行動はドイツとポーランドの和解だけでなく、ドイツが国際社会において信用を取り戻す為、ナチス犯罪に真っ向から向き合い謝罪をすることでドイツの国際的な評価を取り戻すための行動でした。そんな彼の功績は未だに高い評価を受けているのではないだろうか?



