サラエボの銃声
今年は第一次世界大戦が勃発してちょうど100年になりますが、そのきっかけとなったのがオーストリア皇太子夫妻暗殺事件、いわゆるサラエボ事件で、世界史における重大な出来事の一つとして後世に伝えられてます。
そんなわけで今から100年前の今日1914年6月28日は、第一次世界大戦勃発の発端となったサラエボ事件が起こった日です。
今でこそ独立国家として現在に至るボスニア・ヘルツェゴビナ、そんなボスニアはかつてオスマン帝国やオーストリア=ハンガリー帝国に占領されていた歴史を持ち、20世紀初頭にはオーストリアに併合され、ボスニア人やボスニア在住のセルビア人の不満は高まっていったのでした。
そんな中1914年6月、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナント大公がオーストリア軍の演習に視察に赴いたことで、セルビア人にしてみれば、怒りに火がつかないわけがありませんでした。大セルビア主義者にしてみれば占領者であるオーストリアは打倒すべき存在でしかなかったから。
その影でフェルディナント大公夫妻を暗殺すべくセルビア民族主義者たちは組織を結成し、セルビア軍の援助を受けながら暗殺計画を企んでいたのだった。その中の一人にあのガブリエル・プリンチップもいたのだった。
ただオーストリアの対応だが、ボスニアにセルビア系組織がいることを知ってはいたものの、セルビア側のまずい対応もあってか、大公夫妻の警護など積極的な対応を取らなかったのでした。
そして1914年6月28日、フェルディナント大公夫妻はサラエボで訪問パレードを行ったが、途中でセルビア系組織による攻撃を受けながらも(最初は大公夫妻を載せた車目がけて爆弾が投げ込まれたが、後続の車を直撃し、12人が負傷した)、無事市庁舎に到着、ただフェルディナント大公夫妻は爆撃で負傷した者を見舞おうと、予定を変更して病院に向かうことを決断したのだった・・・。
病院に向かう途中、ラテン橋に差し掛かったところ、銃を持ったプリンチップがフェルディナント大公夫妻を乗せた車に近寄って、1発目を妃に、2発めをフェルディナント大公に発射! 銃撃されたフェルディナント大公夫妻はその後病院に担ぎ込まれるもあえなく死亡したのだった・・・。
プリンチップはすぐさま警察に逮捕され、裁判で懲役20年の実刑判決を受けたのだった(未成年者だったことで死刑が適用されなかった)。
皇位継承者暗殺と言う不幸に見舞われたオーストリア、すぐさまセルビアに対し最後通牒なる文書を送ったが、セルビアがそれを拒否、これに激怒しオーストリアはセルビアに宣戦布告、オーストリアの同盟国であるドイツ帝国もセルビアに宣戦布告し、これにより第一次世界大戦が勃発したのでした!!
皇太子夫妻暗殺が世界的な大惨事勃発のきっかけとなった、言うなればプリンチップの起こしたことは世界を大きく揺るがした大々的な展開となった。これは1909年に安重根が伊藤博文をハルビンで暗殺したことで、翌年韓国併合につながったのと同じように、一発の銃声がその後歴史を大きく動かすきっかけを招いたと推測します。
言うなればプリンチップと安重根は同類と言うことだ。暗殺したことがその後世界をとんでもない展開をもたらしたと言うことで。
なお事件の現場となったラテン橋は第一次世界大戦後セルビアにおいてプリンチップが「国の威信を守った愛国者」とされてプリンチップ橋と命名されたが、ユーゴスラビア連邦の崩壊後にプリンチップは「狂信的なセルビア民族主義者」と言う評価に変わり、ラテン橋と改称されたのだった。安重根にせよプリンチップにせよ、母国では英雄視されていると言うが、暗殺者を英雄に仕立てる神経は理解できないし、歴史に大きな汚点を残した人間を称えて何をしたいのか? 片や韓国併合、片や第一次世界大戦を引き起こしたのだから、英雄ではなくテロリストと評した方が正しいです。
そんなわけで今から100年前の今日1914年6月28日は、第一次世界大戦勃発の発端となったサラエボ事件が起こった日です。
今でこそ独立国家として現在に至るボスニア・ヘルツェゴビナ、そんなボスニアはかつてオスマン帝国やオーストリア=ハンガリー帝国に占領されていた歴史を持ち、20世紀初頭にはオーストリアに併合され、ボスニア人やボスニア在住のセルビア人の不満は高まっていったのでした。
そんな中1914年6月、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナント大公がオーストリア軍の演習に視察に赴いたことで、セルビア人にしてみれば、怒りに火がつかないわけがありませんでした。大セルビア主義者にしてみれば占領者であるオーストリアは打倒すべき存在でしかなかったから。
その影でフェルディナント大公夫妻を暗殺すべくセルビア民族主義者たちは組織を結成し、セルビア軍の援助を受けながら暗殺計画を企んでいたのだった。その中の一人にあのガブリエル・プリンチップもいたのだった。
ただオーストリアの対応だが、ボスニアにセルビア系組織がいることを知ってはいたものの、セルビア側のまずい対応もあってか、大公夫妻の警護など積極的な対応を取らなかったのでした。
そして1914年6月28日、フェルディナント大公夫妻はサラエボで訪問パレードを行ったが、途中でセルビア系組織による攻撃を受けながらも(最初は大公夫妻を載せた車目がけて爆弾が投げ込まれたが、後続の車を直撃し、12人が負傷した)、無事市庁舎に到着、ただフェルディナント大公夫妻は爆撃で負傷した者を見舞おうと、予定を変更して病院に向かうことを決断したのだった・・・。
病院に向かう途中、ラテン橋に差し掛かったところ、銃を持ったプリンチップがフェルディナント大公夫妻を乗せた車に近寄って、1発目を妃に、2発めをフェルディナント大公に発射! 銃撃されたフェルディナント大公夫妻はその後病院に担ぎ込まれるもあえなく死亡したのだった・・・。
プリンチップはすぐさま警察に逮捕され、裁判で懲役20年の実刑判決を受けたのだった(未成年者だったことで死刑が適用されなかった)。
皇位継承者暗殺と言う不幸に見舞われたオーストリア、すぐさまセルビアに対し最後通牒なる文書を送ったが、セルビアがそれを拒否、これに激怒しオーストリアはセルビアに宣戦布告、オーストリアの同盟国であるドイツ帝国もセルビアに宣戦布告し、これにより第一次世界大戦が勃発したのでした!!
皇太子夫妻暗殺が世界的な大惨事勃発のきっかけとなった、言うなればプリンチップの起こしたことは世界を大きく揺るがした大々的な展開となった。これは1909年に安重根が伊藤博文をハルビンで暗殺したことで、翌年韓国併合につながったのと同じように、一発の銃声がその後歴史を大きく動かすきっかけを招いたと推測します。
言うなればプリンチップと安重根は同類と言うことだ。暗殺したことがその後世界をとんでもない展開をもたらしたと言うことで。
なお事件の現場となったラテン橋は第一次世界大戦後セルビアにおいてプリンチップが「国の威信を守った愛国者」とされてプリンチップ橋と命名されたが、ユーゴスラビア連邦の崩壊後にプリンチップは「狂信的なセルビア民族主義者」と言う評価に変わり、ラテン橋と改称されたのだった。安重根にせよプリンチップにせよ、母国では英雄視されていると言うが、暗殺者を英雄に仕立てる神経は理解できないし、歴史に大きな汚点を残した人間を称えて何をしたいのか? 片や韓国併合、片や第一次世界大戦を引き起こしたのだから、英雄ではなくテロリストと評した方が正しいです。