ピカソの「怒り」をもたらした無差別爆撃
20世紀最大の画家と言われるパブロ・ピカソ、彼の作品は現代美術において多大な影響をもたらしたことでつとに有名ですが、中でもこの作品は戦争の悲惨さと言うか、一つの町に対する無差別攻撃を起こしたファシズムに対する怒りをぶつけた作品として、反戦・反ファシズムのシンボルと言えます。その名は「ゲルニカ」で、無差別に爆撃され廃墟と化した町がモデルとなっています。そんなわけで今から75年前の今日1937年4月26日は、ピカソが「ゲルニカ」を描くきっかけとなったゲルニカ爆撃が起こった日です。
1930年代、ヨーロッパで名声をほしいままにしていたピカソはフランスを拠点として数々の名画を世に送り出していたのでした。しかし彼の母国スペインでは当時フランシスコ・フランコ率いる軍部が左翼政権に反旗を翻し、反共と称して1936年7月17日にフランコが当時スペイン植民地だったモロッコからスペイン本土に侵攻したことで内乱となり、のちにスペイン内戦と呼ばれる凄惨な戦争となったのだった。
内乱が勃発して1年後の1937年4月26日、北部のバスク地方にある小さな町・ゲルニカに突如フランコ率いる反乱軍が侵攻し、またフランコを支援するナチスが加わって無差別爆撃に及び、1654人が死亡、899人が死傷する凄惨なものとなったのです。
なぜフランコ及びナチスはこの町を爆撃したのか? 理由としてゲルニカにはバスク地方を拠点とする共和国軍が補給路として重要な中継地点にしており、共和国軍を無力化する為に一般市民を大勢巻き込む無差別爆撃を起こしたと言える。
この知らせをパリで聞いたピカソは激しく憤り、当時依頼されていた壁画の題材に悩んでいたピカソだったが、この無差別爆撃の凄惨さ・残酷さ、ファシズムに対する怒りを訴えようと直ちに製作に取り組んだのでした。
横長のキャンバスに油絵の具を用いて「フランコ許さん!!」と怒りを込め、地面に横たわり折れた剣を持ちながら死んでゆく兵士、死んだ子供を抱きながら泣く母親、大火傷を負いながらも助けを求める女性、口を開けたまま呆然となる牛や馬。などをカンバスに描き、戦争の愚かさとファシズムの残酷さを絵で訴えたと言えます。まして母国が内戦で傷つけ合い殺し合う姿を見て心を痛めたのは無理はない。
同年6月にこの絵は完成したものの、日増しに戦禍の高まるヨーロッパを避けてアメリカ・ニューヨークの近代美術館へと贈られたのでした。
やがて戦争の時代が終わり、スペインにも平和が訪れたのだがスペイン内戦で勝利し事実上スペインを支配するフランコの支配下にあったスペイン政府から絵の返還を求められるも、ピカソは「スペインにホントの自由がもたらされるまで戻すつもりはない!! この絵がスペインの土を踏むのはフランコが死んでからだ!!」と突っぱねて拒否したのだった。かねてからフランコ嫌いだったピカソらしいと言うか。
そうこうするうちにピカソは1973年逝去し、ピカソが終生忌み嫌っていたフランコもその2年後亡くなり、スペインに自由が戻ったことでようやく返還交渉が始まって、1981年にゲルニカはスペインに返還されたのでした。
戦争の愚かさとファシズムの無慈悲さとして反戦絵画の代表格として君臨する「ゲルニカ」、ただピカソが生前に左翼・共産主義者だったことで一部で異論もあるかも知れないが、戦争の愚かさを更生に伝える役割として意義のある作品ではないかと思います。
1930年代、ヨーロッパで名声をほしいままにしていたピカソはフランスを拠点として数々の名画を世に送り出していたのでした。しかし彼の母国スペインでは当時フランシスコ・フランコ率いる軍部が左翼政権に反旗を翻し、反共と称して1936年7月17日にフランコが当時スペイン植民地だったモロッコからスペイン本土に侵攻したことで内乱となり、のちにスペイン内戦と呼ばれる凄惨な戦争となったのだった。
内乱が勃発して1年後の1937年4月26日、北部のバスク地方にある小さな町・ゲルニカに突如フランコ率いる反乱軍が侵攻し、またフランコを支援するナチスが加わって無差別爆撃に及び、1654人が死亡、899人が死傷する凄惨なものとなったのです。
なぜフランコ及びナチスはこの町を爆撃したのか? 理由としてゲルニカにはバスク地方を拠点とする共和国軍が補給路として重要な中継地点にしており、共和国軍を無力化する為に一般市民を大勢巻き込む無差別爆撃を起こしたと言える。
この知らせをパリで聞いたピカソは激しく憤り、当時依頼されていた壁画の題材に悩んでいたピカソだったが、この無差別爆撃の凄惨さ・残酷さ、ファシズムに対する怒りを訴えようと直ちに製作に取り組んだのでした。
横長のキャンバスに油絵の具を用いて「フランコ許さん!!」と怒りを込め、地面に横たわり折れた剣を持ちながら死んでゆく兵士、死んだ子供を抱きながら泣く母親、大火傷を負いながらも助けを求める女性、口を開けたまま呆然となる牛や馬。などをカンバスに描き、戦争の愚かさとファシズムの残酷さを絵で訴えたと言えます。まして母国が内戦で傷つけ合い殺し合う姿を見て心を痛めたのは無理はない。
同年6月にこの絵は完成したものの、日増しに戦禍の高まるヨーロッパを避けてアメリカ・ニューヨークの近代美術館へと贈られたのでした。
やがて戦争の時代が終わり、スペインにも平和が訪れたのだがスペイン内戦で勝利し事実上スペインを支配するフランコの支配下にあったスペイン政府から絵の返還を求められるも、ピカソは「スペインにホントの自由がもたらされるまで戻すつもりはない!! この絵がスペインの土を踏むのはフランコが死んでからだ!!」と突っぱねて拒否したのだった。かねてからフランコ嫌いだったピカソらしいと言うか。
そうこうするうちにピカソは1973年逝去し、ピカソが終生忌み嫌っていたフランコもその2年後亡くなり、スペインに自由が戻ったことでようやく返還交渉が始まって、1981年にゲルニカはスペインに返還されたのでした。
戦争の愚かさとファシズムの無慈悲さとして反戦絵画の代表格として君臨する「ゲルニカ」、ただピカソが生前に左翼・共産主義者だったことで一部で異論もあるかも知れないが、戦争の愚かさを更生に伝える役割として意義のある作品ではないかと思います。