凶弾に倒れた「ファラオ」
泥沼化の様相をまた繰り返しつつあるパレスチナ情勢、何度か情勢が良くなりつつある出来事があったものの、すぐに逆戻りすると言う繰り返しで、度々凄惨な対立を引き起こしました。
まして和平を提唱したことで一部の過激派に狙われると言うことも、パレスチナ問題の複雑さを物語ります。かつてエジプトの大統領だったアンワール・サダトをご存知だろうか? アラブ諸国で初めてイスラエルと和平を結び、後の中東和平を礎を築いた人物ですが、これがきっかけでアラブ民族主義者を敵に回し、暗殺されたことでも有名です。
そんなわけで、今から30年前の今日1981年10月6日はアンワール・サダト大統領が暗殺された日です。
1918年、アンワール・サダトはエジプトに生まれ、その後カイロの陸軍士官学校を経て、イギリスによる植民地支配からの解放を目指して抵抗運動に参加したのでした。その士官学校では後にエジプト初代大統領となったガマル・アブドゥル・ナセルと出会いました。サダトはそのナセルと共に自由将校団を結成し、当時エジプトを支配していた国王ファルーク1世を打倒するクーデターに参加し、ラジオを通じて国民に革命を発表を行ったのです。
革命を果たし王政を打倒したサダトは、1953年大統領となったナセルの右腕として政権を担ったのでした(国務大臣)。後にナセルがシリアと共にアラブ連合共和国を建国すると、連合国務大臣となり、後に副大統領を担うのでした。
しかし1970年にナセルが急死すると、副大統領だったサダトがそのまま大統領へと就任し、ナセルがしいていた社会主義路線からの転換を図り、形だけの連合共和国を解体して(実際シリアはナセル存命中の1961年に離脱しているが)、1971年に名称をエジプト・アラブ共和国と改称したのでした。
前任のナセル同様、イスラエルに対して強硬路線だったサダトは、1973年、シリアと共に第4次中東戦争を起こし、イスラエルに宣戦布告してイスラエル軍に打撃を与えたのでした。これまで何度もイスラエルにひどい目に遭わされたアラブ人の怒りに応えたことで、この打撃でエジプト国民から英雄視されたのでした(現にこの戦争はアラブ連合の半ば勝利に終わったが)。第3次中東戦争で敗北した際、イスラエルによって奪われたシナイ半島の返還も期待出来るとこの時、エジプト国民はサダトに期待していたが・・・。
しかしナセルと違い自由主義路線を取ったサダトはアメリカに接近、1977年に何と!? アラブにとって敵視でしかないイスラエルのメナヘム・ベギン首相の招きでエルサレムを訪問、イスラエルの国会で演説して和解を呼びかけると言うものでした。おそらくサダトからすれば、アラブが4度の中東戦争で得たものは何もない。と言う空しさだったんでしょうかね・・・。また、これにはアメリカの思惑もはらんでいたが・・・? アラブの盟主であるエジプトとイスラエルを和解させればパレスチナ問題も解決すると言うヘンリー・キッシンジャー国務長官(当時)の目論見だと言う推測もある。
イスラエルとの和平交渉を進めるサダトは、1978年アメリカのジミー・カーター大統領の仲介で、キャンプ・デービッド合意を果たし、翌1979年にイスラエルとの平和条約締結にこぎつけたのでした。またイスラエルに奪われたシナイ半島の返還を平和的に果たす伏線もあり、これが現代に至るまでの中東和平の先駆けとなったのです。また1978年にはベギン首相と共にノーベル平和賞を受賞しました。
しかしイスラエルと和平を結んだことで、世界的に高い評価を得るもエジプト国内では「パレスチナのアラブ人に対する裏切り」とサダトに反感を持つようになり、また自由主義と市場経済を導入したことで格差が拡大し、腐敗が横行すると言った問題も出てきたのでした。
「サダトはイスラエルに妥協した裏切り者だ」「パレスチナ、いや全てのイスラム教徒を敵に回した」と猛烈に反発するも、サダトはそう言った反対派を弾圧し、さらに支持を失うのでした・・・。
他にも反感を買った理由として、サダト一族の特権的な振る舞いもあったのです。激しいインフレと物価高にあえいでいる中贅沢の限りを尽くすサダトは「かつてのファルーク1世のようだ」と写ったんでしょうね。イスラム原理主義の台頭として、1979年にイランで起こったイスラム革命も影響はしているが。
国内で孤立しつつあるサダトは、1981年9月、自身に批判的な政治家やイスラム原理主義者を次々に逮捕・拘束しますが、孤立をさらに深める結果となったのです・・・。
そして今から30年前の今日1981年10月6日、サダトは首都カイロでの第4次中東戦争開戦を祝う祝賀パレードを閲覧中、突然一台の車が閲覧中のサダト目掛けて近づき、そこから降りてきたハリド・イスランブリと言うイスラム原理主義者から手榴弾を投げつけられ、怯んだサダト目掛けて「ファラオに死を!!」とセリフを吐いてサダトに何発も銃で撃ったのです。
騒然となる会場、直ちに護衛が反撃し、イスランブリ以下サダトを襲撃した3人はすぐに逮捕されましたが、何発を銃撃され重体に陥ったサダトは直ちに病院に運ばれるも、時すでに遅しで死亡しました・・・。イスラム過激派の凶弾に倒れたサダトはこの瞬間、その生涯を閉じたのです・・・。享年62歳でした。
逮捕されたイスランブリ以下過激派は「我が宗教と祖国の為だ」と暗殺を正当化する証言を法廷で述べましたが、イスランブリらからすればサダトは全イスラム教徒の敵であり、ましてアラブの仇敵であるイスラエルと和平を結んだことで、裏切り者と言うイメージしかなかったんでしょうね。
サダトが暗殺された直後、エジプトは当時副大統領だったホスニー・ムバラクが大統領に就任し、今年2月に民主化運動で倒れるまで、30年間エジプトを牛耳るのでした・・・。
戦争と対立を終わらせる為に和平を結んだことで、敵視されて最後は暗殺されると言う末路、このプロットはいかにして中東和平の難しさを物語りますね・・・。さらに時は流れ、1995年にはその2年前にパレスチナと共に和平を結ぶことを前提をした「オスロ合意」に調印したイスラエルのイツハク・ラビン首相(当時)がユダヤ過激派によって暗殺されると言う出来事も起こったのだから、なお更と言っていいかも知れません。ラビン暗殺に関しては半ば「サダトの悲劇再び」と思いますが。
まして和平を提唱したことで一部の過激派に狙われると言うことも、パレスチナ問題の複雑さを物語ります。かつてエジプトの大統領だったアンワール・サダトをご存知だろうか? アラブ諸国で初めてイスラエルと和平を結び、後の中東和平を礎を築いた人物ですが、これがきっかけでアラブ民族主義者を敵に回し、暗殺されたことでも有名です。
そんなわけで、今から30年前の今日1981年10月6日はアンワール・サダト大統領が暗殺された日です。
1918年、アンワール・サダトはエジプトに生まれ、その後カイロの陸軍士官学校を経て、イギリスによる植民地支配からの解放を目指して抵抗運動に参加したのでした。その士官学校では後にエジプト初代大統領となったガマル・アブドゥル・ナセルと出会いました。サダトはそのナセルと共に自由将校団を結成し、当時エジプトを支配していた国王ファルーク1世を打倒するクーデターに参加し、ラジオを通じて国民に革命を発表を行ったのです。
革命を果たし王政を打倒したサダトは、1953年大統領となったナセルの右腕として政権を担ったのでした(国務大臣)。後にナセルがシリアと共にアラブ連合共和国を建国すると、連合国務大臣となり、後に副大統領を担うのでした。
しかし1970年にナセルが急死すると、副大統領だったサダトがそのまま大統領へと就任し、ナセルがしいていた社会主義路線からの転換を図り、形だけの連合共和国を解体して(実際シリアはナセル存命中の1961年に離脱しているが)、1971年に名称をエジプト・アラブ共和国と改称したのでした。
前任のナセル同様、イスラエルに対して強硬路線だったサダトは、1973年、シリアと共に第4次中東戦争を起こし、イスラエルに宣戦布告してイスラエル軍に打撃を与えたのでした。これまで何度もイスラエルにひどい目に遭わされたアラブ人の怒りに応えたことで、この打撃でエジプト国民から英雄視されたのでした(現にこの戦争はアラブ連合の半ば勝利に終わったが)。第3次中東戦争で敗北した際、イスラエルによって奪われたシナイ半島の返還も期待出来るとこの時、エジプト国民はサダトに期待していたが・・・。
しかしナセルと違い自由主義路線を取ったサダトはアメリカに接近、1977年に何と!? アラブにとって敵視でしかないイスラエルのメナヘム・ベギン首相の招きでエルサレムを訪問、イスラエルの国会で演説して和解を呼びかけると言うものでした。おそらくサダトからすれば、アラブが4度の中東戦争で得たものは何もない。と言う空しさだったんでしょうかね・・・。また、これにはアメリカの思惑もはらんでいたが・・・? アラブの盟主であるエジプトとイスラエルを和解させればパレスチナ問題も解決すると言うヘンリー・キッシンジャー国務長官(当時)の目論見だと言う推測もある。
イスラエルとの和平交渉を進めるサダトは、1978年アメリカのジミー・カーター大統領の仲介で、キャンプ・デービッド合意を果たし、翌1979年にイスラエルとの平和条約締結にこぎつけたのでした。またイスラエルに奪われたシナイ半島の返還を平和的に果たす伏線もあり、これが現代に至るまでの中東和平の先駆けとなったのです。また1978年にはベギン首相と共にノーベル平和賞を受賞しました。
しかしイスラエルと和平を結んだことで、世界的に高い評価を得るもエジプト国内では「パレスチナのアラブ人に対する裏切り」とサダトに反感を持つようになり、また自由主義と市場経済を導入したことで格差が拡大し、腐敗が横行すると言った問題も出てきたのでした。
「サダトはイスラエルに妥協した裏切り者だ」「パレスチナ、いや全てのイスラム教徒を敵に回した」と猛烈に反発するも、サダトはそう言った反対派を弾圧し、さらに支持を失うのでした・・・。
他にも反感を買った理由として、サダト一族の特権的な振る舞いもあったのです。激しいインフレと物価高にあえいでいる中贅沢の限りを尽くすサダトは「かつてのファルーク1世のようだ」と写ったんでしょうね。イスラム原理主義の台頭として、1979年にイランで起こったイスラム革命も影響はしているが。
国内で孤立しつつあるサダトは、1981年9月、自身に批判的な政治家やイスラム原理主義者を次々に逮捕・拘束しますが、孤立をさらに深める結果となったのです・・・。
そして今から30年前の今日1981年10月6日、サダトは首都カイロでの第4次中東戦争開戦を祝う祝賀パレードを閲覧中、突然一台の車が閲覧中のサダト目掛けて近づき、そこから降りてきたハリド・イスランブリと言うイスラム原理主義者から手榴弾を投げつけられ、怯んだサダト目掛けて「ファラオに死を!!」とセリフを吐いてサダトに何発も銃で撃ったのです。
騒然となる会場、直ちに護衛が反撃し、イスランブリ以下サダトを襲撃した3人はすぐに逮捕されましたが、何発を銃撃され重体に陥ったサダトは直ちに病院に運ばれるも、時すでに遅しで死亡しました・・・。イスラム過激派の凶弾に倒れたサダトはこの瞬間、その生涯を閉じたのです・・・。享年62歳でした。
逮捕されたイスランブリ以下過激派は「我が宗教と祖国の為だ」と暗殺を正当化する証言を法廷で述べましたが、イスランブリらからすればサダトは全イスラム教徒の敵であり、ましてアラブの仇敵であるイスラエルと和平を結んだことで、裏切り者と言うイメージしかなかったんでしょうね。
サダトが暗殺された直後、エジプトは当時副大統領だったホスニー・ムバラクが大統領に就任し、今年2月に民主化運動で倒れるまで、30年間エジプトを牛耳るのでした・・・。
戦争と対立を終わらせる為に和平を結んだことで、敵視されて最後は暗殺されると言う末路、このプロットはいかにして中東和平の難しさを物語りますね・・・。さらに時は流れ、1995年にはその2年前にパレスチナと共に和平を結ぶことを前提をした「オスロ合意」に調印したイスラエルのイツハク・ラビン首相(当時)がユダヤ過激派によって暗殺されると言う出来事も起こったのだから、なお更と言っていいかも知れません。ラビン暗殺に関しては半ば「サダトの悲劇再び」と思いますが。