この事件は日本プロ野球史において「重大事件」の一つに数えられますが、
それはルールを破って勝手に入団契約するという「暴挙」もだし、球団ぐるみでそれをやらかしたことで大問題に発展、さらに国会において「『職業選択の自由』に反するのではないか?」と問題視されて当時の球界のお偉方が国会で参考人招致されるまでにも至ったのだから、プロ野球はイザ知らず日本社会全体を揺るがす事件であることは招致の事実です。 それは
江川事件で、いわゆる
「空白の一日」という名称でも有名です。
今から40年前の今日1978年11月21日は、江川卓が巨人(読売ジャイアンツ)と突然入団契約したことで、江川事件・いわゆる空白の一日事件が起こった日です。 江川卓。作新学院高校時代に怪物として名を馳せたことから、これほどの逸材を日本プロ野球界が放っておくことがなく、全球団のスカウトが江川の自宅に押しかけるほどで、
高校3年だった1973年にドラフト会議で阪急ブレーブスが1位で指名するも、江川は乗り気でなく入団を拒否して法政大学へと進学した(この時慶応大学を目指していたが、入試で落ちて仕方なく法政を選んだ)。 法政に進学してからも1年生からエースとして君臨し、
4年生になった1977年のドラフト会議ではその直前に巨人志望を公言、巨人も江川の心境を受け入れる形で江川を指名しようとしたが(これには作新学院の理事長でもあった自民党の国会議員・船田中が巨人以外の11球団に対し江川を指名しないよう圧力をかけていた)、クラウンライターライオンズが果敢にも江川を1位指名、
当時不人気に喘いでいたクラウンライターとしては人気上昇及び経営再建の目玉として江川を指名したのだが、当の江川は「九州は遠いから嫌だ」と入団を拒否。法政大を卒業後何とアメリカに野球留学したのだった。 1978年10月12日にクラウンライター(福岡野球会社)は西武グループに球団を譲渡、九州から埼玉県所沢市に本拠地を移転することで江川に拒否された理由を払拭、クラウンライターから交渉権を引き継ぐと改めて江川と入団交渉したがこれも頓挫、
同年11月20日で交渉権は無くなり、2日後のドラフト会議まで江川はドラフト対象選手として再度1位使命を待つ身となったのだが・・・!? 同日江川はひっそりとアメリカから帰国していたのだった。これがこの事件の伏線となる。 しかし今から40年前の今日、
1978年11月21日に巨人が自民党副総裁・船田の事務所で江川を伴って入団締結という事態を起こしたことで一気に江川を取り巻く環境は激変するのだった!! 当時の野球協約では、
ドラフト会議で交渉権を得たチームがその選手と交渉できるのは翌年のドラフト会議の2日前までで、また日本の中学・高校・大学に在籍経験がある者だったことから、法大卒業後アメリカに留学していた江川は「ドラフト外」扱いとなる為、巨人がそれにつけ込んで江川を強引に入団させたとしか言えないが、制度の抜け穴を利用して欲しい選手を取るなど悪質もいいところだ。そこまでして巨人は江川が欲しかったのだろうか? 最もこの日で江川と西武の交渉権は無くなり、この時点で江川はドラフト対象外であると巨人が勝手に主張したが、当然セ・リーグはもとよりNPB(日本野球機構)は棄却したけど、事態は余計ややこしくなるのだった。 この裁定を不服とした巨人は翌日、即ち同年11月22日行われたドラフト会議を欠席、江川は南海ホークス・近鉄バファローズ・ロッテオリオンズ・そして阪神タイガースから1位指名されて、
競合の結果阪神が交渉権を獲得したが、巨人は何を思ったのか
「巨人の契約選手を指名したら訴える」「12球団全部出席していないドラフトは無効」と言いがかりをつけて江川との契約の正当性を訴えたが、
自分たちのルール破りな行為で江川と契約してそれが認められないからドラフトをボイコットするという勝手なことしといてふざけてるし、どこまで巨人は自分たちが特別な存在なんだと屁理屈を抜かすのだろうか。 江川との契約を認めないとするNPBに対し巨人は
「だったらセ・リーグを脱退して新リーグを作る!」と言い出し、NPBや他球団との溝は深まるのでした。そんな中で
金子鋭コミッショナー(当時)は「巨人の勝手な主張は認めない」として、
同年のドラフトは有効であると見なし江川と巨人による入団契約は無効。阪神の江川に対する交渉権は認めることとしたのです。そりゃそうだ。一球団が勝手に入団契約する行為など認められないし、ドラフトにかけてそれでその選手の交渉権を得た球団にだけ契約する権利があるんだから、コミッショナー裁定は当然。 だがそれでも終わらなかった。同年12月22日のプロ野球実行委員会において
「江川を一度阪神に入団させて、その後すぐ巨人にトレードする」というトンデモ提案が出たのだった。本来新人選手の公式戦開幕前に他球団に移籍するという行為は認められてないものの、
金子コミッショナーは江川獲得の正当性及びセ・リーグ脱退、新リーグ発足を仄めかす巨人に配慮する形で江川を巨人に入団させるという措置だったが、阪神は江川の交渉権を取ったのに一旦入れてすぐにトレードなんてふざけてると反発したのは言うまでもない。
巨人側、江川と入れ替わりでトレードされることで、選手の間で疑心暗鬼に陥ったのも無理はない。 年が明けた1979年1月31日、巨人と阪神の間で江川を阪神に入れて巨人が当時エースだった
小林繁と交換トレード。という形で幕引きを図ったが、
これも突然のことで世間から驚きと反発の声が上がり、とりわけ阪神、江川と交渉中に「トレードするつもりはない」と言いながら交換トレードを発表したことで批判を浴びたのだった。またこの交換トレードは野球協約に反するとの指摘を受け、この交換トレードは認められず、小林は交換選手なしで阪神に移籍、江川は開幕日の同年4月7日に巨人に移籍ということとなった。
結局最後まで江川の巨人入団はトラブルばかりだったってこと。また金子コミッショナーはこの騒動に疲れ果てたっていうか責任を取る形でコミッショナー職を辞任、以降亡くなるまで野球関連の記事を見ることはありませんでした。 江川と入れ替わりでトレードされた小林は「同情されたくない」と不満を示さずトレードを受け入れたことから「悲劇のヒーロー」と後年呼ばれるようになったのだが・・・。突然のトレードにも嫌な顔をせず受け入れるという小林の大人な対応、後年近鉄へのトレードを拒否して引退した定岡正二とはえらい違いだ。 この騒動はプロ野球界のみならず、
当時のセ・リーグ会長(鈴木龍二)ら5人が国会で参考人招致されたり(ドラフト会議は職業選択の自由に反する行為ではないかと詰問されたとか)、また巨人と西武の間で因縁が生まれて、読売新聞や日本テレビは西武グループの広告(テレビはCM)を締め出せば、西武鉄道は電車の宙吊り広告や西武沿線にあるキオスクから読売系の新聞を締め出すなど、一選手の契約を巡る騒動は親会社を巻き込んだ遺恨合戦に発展するなど日本全体に波紋が広がったのでした。
西武グループとして江川の交渉権を巨人に取られたことで「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ばかりに巨人の親会社である読売新聞は許せないと思ったんでしょう。巨人も巨人でルール破りをしておいてもう一方の当事者(西武グループ)に対して許せない的な態度に出る。元はと言えば巨人が起こした騒動だろうが!! ホント巨人は自分たちが球界で特別な存在だなんて屁理屈言って、その態度がアンチを増やす要因なんじゃないのと言いたくなります。現にこの騒動でアンチ巨人は増加したと言われている。 それと情けないのがNPB、
ルール破りをしてまで入団した江川には開幕から2ヶ月間出場停止処分を下したのに、巨人に対しては制裁金などのペナルティすら下さなかったのは明らかに理不尽極まりないです。勝手にルールを破って一選手と契約するという暴挙をしでかした巨人は非難されて当然なのに、罰則がないなんて無罪放免に等しいです。
今でいう1億円ぐらいの制裁金及び翌年のドラフト会議に出席させない、即ち翌年の新人選手獲得資格取り消し。さらには正力亨オーナー(当時)や球団社長を追放処分するという処分を下すのが普通なのに、それがないのは当時のプロ野球がいかにも巨人中心主義だってことを裏付けます。巨人中心主義が球界をダメにしているのはこの頃から始まったとも言えるけど。 日本中を大きく騒がせ、かつ世間から大バッシングを受けた江川と巨人、
江川が入団会見で発した「皆さんそう興奮しないでください」なんてフレーズ、自分のしたことを他人事のようにこう言うのって何で図太いっていうか日和見的なんだろうって思います。
江川ってなんでそこまでして巨人に入りたかったの? これにはいかに巨人が日本のプロ野球界において特別な存在だってのを裏付けるものだが、巨人中心主義はこのような傾向を及ぼすってことだ。巨人以外眼中にないという排外的な考え、最もこの考えが後年の元木大介や長野久義、菅野智之にも当てはまる。
周囲を顧みず強引に自分の意見を押し通す「エガワる」というフレーズも生まれたのでした(現代においては韓国がそれに当てはまるが、この場合は「コリアる」)。巨人行きにこだわったせいで日本中を敵に回す結果となった江川、行き過ぎた巨人ブランドはこういう騒動につながることを世間は覚えておこう。 江川についてもう一つ「『しくじり先生』(テレビ朝日系)に出たら?『巨人行きにこだわって日本中からバッシングされちゃった先生』として」って言いたくなります。
theme : プロ野球
genre : スポーツ