フェンスにラバーを義務化、選手の生死に関わる負傷ではタイムが義務化するきっかけ
全国の野球場においてフェンスには衝撃防止の為のラバー(緩衝材)が設置されてますが、そのきっかけとなった事件をご存知だろうか、それは当時の野球場のフェンスと言えばコンクリートが剥き出しだったことから起こった事件で、選手が生死に関わる負傷を負った際、審判はタイムを宣告しなければいけないと言う義務も課せられると言うルール改正にもつながりました。
今から40年前の今日1977年4月29日、川崎球場で行われた大洋ホエールズ対阪神タイガースとの試合、9回表まで7-6と阪神が1点をリードして迎えたその裏、1アウト1塁で大洋の清水透がレフトに大飛球を放ち、それを阪神のレフト・佐野仙好が背走し続けコンクリートフェンスに激突しながらキャッチしてアウトとしたのだったが・・・!!
コンクリート剥き出しのフェンスに頭からモロに強打、佐野はボールを取ったままピクリともせずただならぬ雰囲気が球場を覆った。フェンスに頭から強打したことで佐野は頭蓋骨陥没骨折と言う重傷を負ったのだった・・・。
レフト線審は佐野の捕球を確認してアウトを宣告するも、佐野は動かず、阪神ナインが佐野のところに駆け寄るもタイムはかからず、1塁走者はタップアップして悠々ホームイン、7-7の同点、捕球したにも関わらず他の野手に送球しなかったことで失策と見なされた(その後訂正されたが)。佐野はその後グラウンド内に乗り入れた救急車によって直ちに病院へと搬送された。
阪神側は突発事故が起こったことでタイムが宣告されてもおかしくないからこの点は無効だと抗議したものの審判団は受け入れられず、試合は7-7の引き分けと言う結果に終わった。
この事態を受けNPBは翌月12日の実行委員会にて、セ・パ12球団の全本拠地球場のフェンスにラバーをつけることを義務化するよう指示し、12球団全部これに賛同したことで全本拠地球場にラバーがつけられ、その後全国の主要野球場においてフェンスにはラバーをつけることが義務化されました(これに伴い、1988年からフェンスにラバーがついていない球場ではプロ野球の試合を認めないと言うルールも出来た)。選手の安全を考えたら衝撃防止策は必要ですからね。
また選手の生死に関わる負傷が生じた場合、審判はタイムを宣告しなければいけないと言う条文がその後日本野球規則委員会にてつけられたのだから、佐野の負傷事故がもたらしたもの、それは選手の安全を考える。ということだ。確かに試合中に選手が生死に関わるまたは重傷レベルのケガを負った場合、その処置をしなければいけない為タイムをかけねばいけませんからね。後年の吉村禎章、西岡剛のケースにも当てはまるが。
佐野はこの年外野手に転向し「ここが俺の死に場所」と覚悟を持って臨んだが、ホントの死に場所になってしまってはあまりにも気の毒だ。その後頭蓋骨陥没骨折から復活し、勝負強いバッティングを武器に阪神の主力の一人へと成長したのでした(1981年には勝利打点王に輝いた)。現在は編成担当としてチームを裏から支えている。
今から40年前の今日1977年4月29日、川崎球場で行われた大洋ホエールズ対阪神タイガースとの試合、9回表まで7-6と阪神が1点をリードして迎えたその裏、1アウト1塁で大洋の清水透がレフトに大飛球を放ち、それを阪神のレフト・佐野仙好が背走し続けコンクリートフェンスに激突しながらキャッチしてアウトとしたのだったが・・・!!
コンクリート剥き出しのフェンスに頭からモロに強打、佐野はボールを取ったままピクリともせずただならぬ雰囲気が球場を覆った。フェンスに頭から強打したことで佐野は頭蓋骨陥没骨折と言う重傷を負ったのだった・・・。
レフト線審は佐野の捕球を確認してアウトを宣告するも、佐野は動かず、阪神ナインが佐野のところに駆け寄るもタイムはかからず、1塁走者はタップアップして悠々ホームイン、7-7の同点、捕球したにも関わらず他の野手に送球しなかったことで失策と見なされた(その後訂正されたが)。佐野はその後グラウンド内に乗り入れた救急車によって直ちに病院へと搬送された。
阪神側は突発事故が起こったことでタイムが宣告されてもおかしくないからこの点は無効だと抗議したものの審判団は受け入れられず、試合は7-7の引き分けと言う結果に終わった。
この事態を受けNPBは翌月12日の実行委員会にて、セ・パ12球団の全本拠地球場のフェンスにラバーをつけることを義務化するよう指示し、12球団全部これに賛同したことで全本拠地球場にラバーがつけられ、その後全国の主要野球場においてフェンスにはラバーをつけることが義務化されました(これに伴い、1988年からフェンスにラバーがついていない球場ではプロ野球の試合を認めないと言うルールも出来た)。選手の安全を考えたら衝撃防止策は必要ですからね。
また選手の生死に関わる負傷が生じた場合、審判はタイムを宣告しなければいけないと言う条文がその後日本野球規則委員会にてつけられたのだから、佐野の負傷事故がもたらしたもの、それは選手の安全を考える。ということだ。確かに試合中に選手が生死に関わるまたは重傷レベルのケガを負った場合、その処置をしなければいけない為タイムをかけねばいけませんからね。後年の吉村禎章、西岡剛のケースにも当てはまるが。
佐野はこの年外野手に転向し「ここが俺の死に場所」と覚悟を持って臨んだが、ホントの死に場所になってしまってはあまりにも気の毒だ。その後頭蓋骨陥没骨折から復活し、勝負強いバッティングを武器に阪神の主力の一人へと成長したのでした(1981年には勝利打点王に輝いた)。現在は編成担当としてチームを裏から支えている。