阪神、いやプロ野球の歴史における「もっとも恥ずべき事件」
この事件は、おそらく阪神タイガースの歴史において十大事件になることは必至です。なぜならその様子は一部始終テレビで中継され、刑事事件にまで発展し、社会問題にまでなるなど日本中から注目を集めたのだからなお更でしょう。そんなわけで今から28年前の今日1982年8月31日は、横浜スタジアム審判集団リンチ事件が起こった日です。
今から28年前の今日1982年8月31日、横浜スタジアムで行われた大洋(現・横浜)対阪神の21回戦、大洋・遠藤一彦、阪神・藤原仁の先発で始まったこの試合は、1-1の同点で接戦で迎えた7回表阪神の攻撃、この回先頭のバッター・藤田平が3塁前に高く打球を打ち上げ、その捕球に入った大洋のサード・石橋貢は後方フェアゾーンでフライを落球し、打球はファールゾーンに転がった。打者の藤田は1塁に駆け込んでいた。
これを見ていた3塁塁審、鷲谷亘は打球は石橋のグラブに触れていないとして「ファウル」の判定を下した。
この判定に3塁側・阪神ベンチから選手やコーチが一気に飛び出し、3塁ベースコーチの河野旭輝は「フェアゾーンで石橋のグラブに触れたからフェアだ!」と食って掛かるが、鷲谷塁審は、打球は石橋のグラブに触れていないとしてファウルを主張した。
そこに1塁ベースコーチ・島野育夫が、鷲谷塁審につかみかかり、シャツに引っ張って小突いたのだった。当然「退場!」と島野は宣告されるが、この宣告に島野は激高、さらに柴田猛バッテリーコーチも加勢して鷲谷塁審を殴る蹴るの暴行を働き、さらに止めに入った岡田和也(現・功)球審にもその矛先を向け、殴る蹴るの暴行に及んだのだった。阪神の選手たちは島野・柴田両コーチを止めるどころか事態を静観していたのでした(真弓明信が柴田コーチを止めに入っていたが)。
球場が騒然となる中、暴行を受け崩れ落ちた岡田球審は「もうやってられるか!」とプロテクターを叩きつけ「こんな暴力団相手に試合など出来ない! 没収試合だ!」と激怒し、審判団を引き上げるという事態にまで発展したのだった。
事態を重く見た阪神・安藤統男監督は審判室に赴き、謝罪して島野・柴田両コーチを退場させることで事態は解決「さんざん痛めつけられましたが、試合を再開します」と試合は再開。試合は9回に問題の打球を放った藤田がライトに2ランホームランを放ち3-1で阪神が勝利したのでした。この試合はテレビ神奈川で中継していた為、当然リンチの様子もテレビで中継されていた。
事件を受け、鈴木龍二セ・リーグ会長(当時)は「言語道断!」と激怒し、島野・柴田両コーチに無期限出場停止処分・罰金10万円を下し、さらにこの試合の翌日9月1日に神奈川県警加賀町署が岡田、鷲谷、手沢両審判から事情を聞き、傷害事件として捜査するというまでに発展、翌2日に加賀町署は島野・柴田両コーチに出頭を求め取調べをするという顛末ともなったのでした。9月29日には、横浜地検が傷害事件で両コーチを略式起訴し、横浜簡易裁判所が罰金5万円の略式命令を下したのでした。
2万2千人の観衆の前で集団リンチ事件を起こすという前代未聞の悪質な事件だけに、当初は永久追放論も出たものの、ファンによる処分軽減署名や島野・柴田両コーチが事件を反省していることで翌1983年3月にセ・リーグは両コーチの無期限出場停止を解除、阪神は改めてコーチ契約を結び、両コーチは甲子園でファンに謝罪したのでした。
その後島野は阪神でコーチを続けた後、1987年からは中日でコーチ、星野仙一の参謀として存在感を示したのは承知の通りです(1992年から3年間また阪神でコーチ、2002年には阪神の監督に就任した星野の参謀を務めた)。
柴田はその後南海、オリックス、ダイエー、ヤクルトでコーチを務め、1996年阪神にヘッドコーチとして復帰、このシーズン終盤で解任された藤田平監督の代行として残り試合の指揮をとったのでした。その後は中日でフロントを務め、現在は巨人の運営部特別委託スタッフとして現在に至っています。
判定を巡って集団リンチに発展した前代未聞の事件、永久追放論まで出るくらい悪質なものだった横浜スタジアム審判集団リンチ事件、阪神の歴史はもとよりも、球史に名を残す恥ずべきものであることは事実であることは間違いないです。
今から28年前の今日1982年8月31日、横浜スタジアムで行われた大洋(現・横浜)対阪神の21回戦、大洋・遠藤一彦、阪神・藤原仁の先発で始まったこの試合は、1-1の同点で接戦で迎えた7回表阪神の攻撃、この回先頭のバッター・藤田平が3塁前に高く打球を打ち上げ、その捕球に入った大洋のサード・石橋貢は後方フェアゾーンでフライを落球し、打球はファールゾーンに転がった。打者の藤田は1塁に駆け込んでいた。
これを見ていた3塁塁審、鷲谷亘は打球は石橋のグラブに触れていないとして「ファウル」の判定を下した。
この判定に3塁側・阪神ベンチから選手やコーチが一気に飛び出し、3塁ベースコーチの河野旭輝は「フェアゾーンで石橋のグラブに触れたからフェアだ!」と食って掛かるが、鷲谷塁審は、打球は石橋のグラブに触れていないとしてファウルを主張した。
そこに1塁ベースコーチ・島野育夫が、鷲谷塁審につかみかかり、シャツに引っ張って小突いたのだった。当然「退場!」と島野は宣告されるが、この宣告に島野は激高、さらに柴田猛バッテリーコーチも加勢して鷲谷塁審を殴る蹴るの暴行を働き、さらに止めに入った岡田和也(現・功)球審にもその矛先を向け、殴る蹴るの暴行に及んだのだった。阪神の選手たちは島野・柴田両コーチを止めるどころか事態を静観していたのでした(真弓明信が柴田コーチを止めに入っていたが)。
球場が騒然となる中、暴行を受け崩れ落ちた岡田球審は「もうやってられるか!」とプロテクターを叩きつけ「こんな暴力団相手に試合など出来ない! 没収試合だ!」と激怒し、審判団を引き上げるという事態にまで発展したのだった。
事態を重く見た阪神・安藤統男監督は審判室に赴き、謝罪して島野・柴田両コーチを退場させることで事態は解決「さんざん痛めつけられましたが、試合を再開します」と試合は再開。試合は9回に問題の打球を放った藤田がライトに2ランホームランを放ち3-1で阪神が勝利したのでした。この試合はテレビ神奈川で中継していた為、当然リンチの様子もテレビで中継されていた。
事件を受け、鈴木龍二セ・リーグ会長(当時)は「言語道断!」と激怒し、島野・柴田両コーチに無期限出場停止処分・罰金10万円を下し、さらにこの試合の翌日9月1日に神奈川県警加賀町署が岡田、鷲谷、手沢両審判から事情を聞き、傷害事件として捜査するというまでに発展、翌2日に加賀町署は島野・柴田両コーチに出頭を求め取調べをするという顛末ともなったのでした。9月29日には、横浜地検が傷害事件で両コーチを略式起訴し、横浜簡易裁判所が罰金5万円の略式命令を下したのでした。
2万2千人の観衆の前で集団リンチ事件を起こすという前代未聞の悪質な事件だけに、当初は永久追放論も出たものの、ファンによる処分軽減署名や島野・柴田両コーチが事件を反省していることで翌1983年3月にセ・リーグは両コーチの無期限出場停止を解除、阪神は改めてコーチ契約を結び、両コーチは甲子園でファンに謝罪したのでした。
その後島野は阪神でコーチを続けた後、1987年からは中日でコーチ、星野仙一の参謀として存在感を示したのは承知の通りです(1992年から3年間また阪神でコーチ、2002年には阪神の監督に就任した星野の参謀を務めた)。
柴田はその後南海、オリックス、ダイエー、ヤクルトでコーチを務め、1996年阪神にヘッドコーチとして復帰、このシーズン終盤で解任された藤田平監督の代行として残り試合の指揮をとったのでした。その後は中日でフロントを務め、現在は巨人の運営部特別委託スタッフとして現在に至っています。
判定を巡って集団リンチに発展した前代未聞の事件、永久追放論まで出るくらい悪質なものだった横浜スタジアム審判集団リンチ事件、阪神の歴史はもとよりも、球史に名を残す恥ずべきものであることは事実であることは間違いないです。