今から20年前、
東ヨーロッパ諸国で起こった民主化運動、その中で大きな流血騒ぎとなるような事態にならず平和的な革命だったことから
ビロード革命と名づけられた
チェコスロバキア(当時)の民主化運動、
今から20年前の今日1989年11月24日はチェコスロバキアの共産主義政権が倒され、民主化組織「市民フォーラム」が勝利宣言をした日です。 中央ヨーロッパに位置する
チェコ共和国と
スロバキア共和国、現在この両国は違う国ですが、かつてチェコスロバキアという一つの国家でした。 チェコスロバキアは第1次大戦後
オーストリア=ハンガリー帝国から独立し、チェコスロバキア共和国として歩み始めましたが、
1938年ナチス・ドイツによって割譲され分断国家となり、異なる道を辿ったものの第2次大戦終了とともに独立を回復したものの、
共産党によるクーデターで共産主義体制となり、東側陣営の一つとなりました。
しかし1956年にソ連でスターリン批判が起こると他の東ヨーロッパ諸国の間で共産主義体制への疑問が生まれ民主化の気運が起こり、当然チェコスロバキアにもその気運が起こって当時の共産党書記長に対する不満が高まって民主化に対する支持は高まったのでした。
そんな中1968年1月に
アレクサンデル・ドプチェクが書記長に就任すると、民主化を支持し
「人間の顔をした共産主義」を掲げた
「プラハの春」と呼ばれる改革派運動を起こしましたが、
同年8月に民主化を恐れたソ連及びワルシャワ条約機構による軍事介入により鎮圧され、翌1969年ドプチェクは書記長を解任され、
グスターフ・フサークが書記長に就任すると
「プラハの春」に関わった人物など改革派や反体制派を容赦なく弾圧し、正常化体制と呼ばれる保守的で新ソ体制となってしまいました。それだけでなく「プラハの春」に関わった政治家などはいわれのない嫌がらせを受け、
またドプチェクは共産党を除名され秘密警察の監視下の元、ブラチスラバで森番を強いられたのでした。 フサークの強権的な体制に対し、1977年に
ヴァーツラフ・ハヴェルら反体制を掲げる知識人らが
人権擁護・民主化を掲げた「憲章77」という文書を発表し、共産主義政権に対し抗戦したのでした。
ハヴェルは何度も逮捕、投獄されますが、弾圧に屈せず運動を続け「憲章77」は1980年には1200人ほどの署名を集めるまでになり、ハヴェルの考えに同調する人は増えたのでした。
1985年にソ連で
ミハイル・ゴルバチョフが書記長に就任すると、ソ連で改革路線が強まったことでチェコスロバキアでも改革の声が高まったのでした。
しかしフサークは強権体制を崩さず、1987年に
ミロシュ・ヤケシュに書記長の座を譲るも
大統領として居座り体制維持と反体制派弾圧をやめませんでした。 1989年、
共産党支配に対する不満はエスカレートしまた他の東ヨーロッパ諸国で民主化の気運が高まったことも相まって、チェコスロバキアで民主化の気運は高まり、労働者はストライキを敢行し共産主義政権に抗議し民主化を後押ししました。
ハヴェルら「憲章77」のメンバーが中心となって
「市民フォーラム」が結成され、
政府に対し政治犯の調査や17日にヴァーツラフ広場における弾圧に関わった当局関係者の処分を訴えました。労働者だけでなく学生もストライキに参加し、プラハをはじめとする都市では大規模なデモに膨れ上がりました。 カトリック教会も民主化を支持し、民主化運動の高まりとともに追い詰められた共産主義政権は
ラディスラフ・アダメツ首相が11月21日に「市民フォーラム」との対話に臨み、
そこでアダメツは市民側に対し官憲による暴力的な弾圧はしないことを保障したのでした。民主化気運の高まりでチェコスロバキアに駐留していたソ連軍は介入しないと声明を出し、それでもヤケシュ書記長は共産主義の正当性を訴えましたが、かえって国民と共産主義政権の間には溝が出来ており、気がつけば孤立していたのでした。
そして今から20年前の今日11月24日、ヤケシュ書記長及びフサーク大統領らチェコスロバキア共産党幹部は辞任し、40年に渡りチェコスロバキアに君臨した共産主義政権は倒されたのでした。ヴァーツラフ広場ではハヴェル率いる「市民フォーラム」が勝利宣言をし、民主化を望む改革派の勝利となりました。また暴力的な衝突も出さず、一人の死者及び負傷者を出さなかったのでした。 マスコミや世論は民主化を支持したものの、ゼネストは国内全土に広がりこの状況の中「市民フォーラム」など民主化勢力とチェコスロバキア共産党の対話が行われ、体制変換への協議を重ねた結果共産党一党独裁の廃止、複数政党制導入で結論が出て、チェコ側では「市民フォーラム」が、スロバキア側ではもう一つの民主化勢力「暴力に反対する公衆」が第一党となり、
12月29日、ハヴェルが大統領に「ビロード革命」で名誉を回復し政界に復帰したドプチェク元書記長が連邦議会議長に就任し、非共産党の政権が誕生したのでした。また大学生らによるゼネストも終結したのでした。 流血の事態を出さず、平和的な民主化を達成したハヴェルは新生チェコスロバキアの象徴となったのでした。 民主化したまでは良かったものの、
チェコとスロバキアの間にはお互いの認識の違いが表面化し「一体不可分の単一国家」を主張するチェコと「対等な2カ国による連邦国家」を主張するスロバキアで対立し、1992年にチェコでヴァーツラフ・クラウス(後の大統領)率いる市民民主党が、スロバキアでヴラジミール・メチアル率いる民主スロバキア運動がそれぞれ第一党となると、連邦解消に向けた両者の会談の末、
翌1993年1月1日チェコスロバキアはチェコとスロバキアというそれぞれの国家に分かれる形で独立したのでした。連邦解体時にも平和的な分離だった為「ビロード離婚」とも呼ばれました。 民主化の立役者ハヴェルは、1993年に連邦を解消した後も新生チェコの初代大統領として、2003年2月にヴァーツラフ・クラウスに大統領職を譲るまで大統領職に君臨したのでした。また連邦議会議長に就任し政界に復帰したドプチェクは1992年に連邦解体の動きが見えたところでその座を降りましたが、同年9月に交通事故にあい同年11月に死去したのでした。ドプチェクの死からすぐチェコとスロバキアに分かれたこともありドプチェクは「最後のチェコスロバキア人」とも呼ばれたのでした。 あれから20年、チェコスロバキアはチェコとスロバキアという国として現在に至りますが、両国の関係は連邦解体後も良好なようです。 死傷者を出すような流血の事態を生み出さず、平和的な民主革命だったチェコスロバキアのビロード革命、これが民主化革命のあるべき姿ではないでしょうか?
theme : 歴史
genre : 政治・経済