世界の巨人、ジャイアント馬場が亡くなってもう10年
日本のプロレスの歴史において、力道山やアントニオ猪木と並んでこの人を欠かすことは出来ないでしょう。そう、ジャイアント馬場です。今から10年前の今日は、そのジャイアント馬場がなくなった日です。当時このニュースを聞いた時、私は「えっ!?あのジャイアント馬場さんが死んだ!?」とビックリしたものです。当然プロレスファンはもとより日本中が衝撃を受けたでしょう。
ジャイアント馬場(本名馬場正平)は、1938(昭和13)年、新潟県三条市で生まれました。当初は野球に明け暮れ、三条実業高在学中の1955年、読売ジャイアンツにスカウトされ、高校を中退し投手として入団しました。しかしなかなか芽が出ず、1959年オフ、巨人を自由契約となり、翌1960(昭和35)年、大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ)に練習生としてキャンプに参加し、採用内定が出ていたものの風呂場で転倒し右ヒジ軟骨を痛め、野球を断念し引退しました。
同年4月、日本プロレスに入団、力道山の下に弟子入りし、力道山に大変可愛がられ、新弟子の中で給料をもらうほどでした(それでも力道山から受けた特訓は尋常でなかった)。同年9月にデビューし、その後何度もアメリカに武者修行しに行き、数々のタイトルに挑戦するした。リングネームは当初本名の馬場正平だったが「フランケンシュタイン・ババ」「ビッグ・ババ」「ババ・ザ・ジャイアント」など様々なネーミングがあり、また大変な知名度も誇った。
だが遠征中の1963年、力道山が急死し、急遽日本に帰国するが、当時マネージャーだったグレート東郷から、高年俸を理由にアメリカ定住を勧められるが、馬場は「金の問題ではない」と一蹴したのだった。
1965年には日本プロレスのエースとして君臨し、インターナショナル・ヘビー級王座に輝き、またアントニオ猪木と共に「BI砲」タッグでインターナショネル・タッグ王座も獲得した。
1972年、馬場は日本プロレスから独立し全日本プロレスを設立(その前に袂を別った猪木は新日本プロレスを設立)、翌1973年2月には世界ヘビー級争覇戦においてボボ・ブラジルを破り、初代PWFヘビー級王者に認定され、翌1974年の12月には、NWA世界ヘビー級王座戦においてジャック・ブリスコと対戦し、これに勝利しNWA世界ヘビー級王者に輝き(これはアジア人として初めて獲得である)、また1979年から2年連続でNWA世界ヘビー級王者にも輝くなど馬場は人気・実力ともにスターとなりました。
一方で、袂を別ったアントニオ猪木が率いる新日本プロレスの台頭は、馬場にとっては危機感でした。猪木は馬場を越えようとプロレスに留まらず、モハメド・アリなどと異種格闘技戦を行うなど全日本とは違うと言うのを盛んにアピールしました。
だが馬場は猪木などからの挑発などに対しても、馬場は「明るく、楽しく、激しいプロレス」をモットーとし、受身の重要さを説きました。猪木のストロング・スタイルを追求したプロレスが、様々な団体の派生につながり、一時期全日本プロレスのスタイルは時代遅れだと批判されたが、逆に見直されて再評価の声が高まるようになりました。
1985年、PWFヘビー級王座戦においてスタン・ハンセンに敗れ、王者から陥落すると、タイトル戦線から遠のくようになり、以降馬場は全日本の社長業兼タレントとしてプロレスと併行して活動することとなります。
タレント活動での馬場を語る上で欠かせないのが、かつて日本テレビで放送されていた「クイズ世界はShow by ショーバイ!」であり、そこでの馬場は様々な珍回答とアクションでたちまちお茶の間の人気を博しました。
また共演した逸見政孝がガンにかかり、闘病生活を送るようになってからは、早期回復を願って大好きな葉巻を絶ちました。また「Show by ショーバイ!」の最終回特番では、試合が終わってからすぐスタジオに駆けつけ、馬場自身の名場面も放送されました。
1998年12月5日には、日本武道館でラッシャー木村、百田光雄と組んで、渕正信、永源遥、菊地毅組と対戦しました。奇しくもこれが最後の試合でした。
その後病に倒れ、今から10年前の今日、1999年1月31日、ジャイアント馬場は肝不全の為亡くなりました。享年61歳でした。そして生涯現役でした。
同年4月17日、日本武道館で行われたファン葬には3万8千人が参加し、馬場を偲びました。また5月2日の東京ドーム興行では引退記念試合が行われ、過去の馬場の名場面を振り返るシーンが上映されました。
あの世界の巨人、ジャイアント馬場が亡くなってもう10年、日本のプロレス界は様変わりしてしまい、いつしかただの見世物小屋じみたショーにしか成り下がった感じがします。馬場が亡くなった翌年6月には、全日本プロレスは25人の選手が去り、中継していた日本テレビは中継を打ち切り、今やかつてのプロレス隆盛時代はどこへやら、です。
ジャイアント馬場(本名馬場正平)は、1938(昭和13)年、新潟県三条市で生まれました。当初は野球に明け暮れ、三条実業高在学中の1955年、読売ジャイアンツにスカウトされ、高校を中退し投手として入団しました。しかしなかなか芽が出ず、1959年オフ、巨人を自由契約となり、翌1960(昭和35)年、大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ)に練習生としてキャンプに参加し、採用内定が出ていたものの風呂場で転倒し右ヒジ軟骨を痛め、野球を断念し引退しました。
同年4月、日本プロレスに入団、力道山の下に弟子入りし、力道山に大変可愛がられ、新弟子の中で給料をもらうほどでした(それでも力道山から受けた特訓は尋常でなかった)。同年9月にデビューし、その後何度もアメリカに武者修行しに行き、数々のタイトルに挑戦するした。リングネームは当初本名の馬場正平だったが「フランケンシュタイン・ババ」「ビッグ・ババ」「ババ・ザ・ジャイアント」など様々なネーミングがあり、また大変な知名度も誇った。
だが遠征中の1963年、力道山が急死し、急遽日本に帰国するが、当時マネージャーだったグレート東郷から、高年俸を理由にアメリカ定住を勧められるが、馬場は「金の問題ではない」と一蹴したのだった。
1965年には日本プロレスのエースとして君臨し、インターナショナル・ヘビー級王座に輝き、またアントニオ猪木と共に「BI砲」タッグでインターナショネル・タッグ王座も獲得した。
1972年、馬場は日本プロレスから独立し全日本プロレスを設立(その前に袂を別った猪木は新日本プロレスを設立)、翌1973年2月には世界ヘビー級争覇戦においてボボ・ブラジルを破り、初代PWFヘビー級王者に認定され、翌1974年の12月には、NWA世界ヘビー級王座戦においてジャック・ブリスコと対戦し、これに勝利しNWA世界ヘビー級王者に輝き(これはアジア人として初めて獲得である)、また1979年から2年連続でNWA世界ヘビー級王者にも輝くなど馬場は人気・実力ともにスターとなりました。
一方で、袂を別ったアントニオ猪木が率いる新日本プロレスの台頭は、馬場にとっては危機感でした。猪木は馬場を越えようとプロレスに留まらず、モハメド・アリなどと異種格闘技戦を行うなど全日本とは違うと言うのを盛んにアピールしました。
だが馬場は猪木などからの挑発などに対しても、馬場は「明るく、楽しく、激しいプロレス」をモットーとし、受身の重要さを説きました。猪木のストロング・スタイルを追求したプロレスが、様々な団体の派生につながり、一時期全日本プロレスのスタイルは時代遅れだと批判されたが、逆に見直されて再評価の声が高まるようになりました。
1985年、PWFヘビー級王座戦においてスタン・ハンセンに敗れ、王者から陥落すると、タイトル戦線から遠のくようになり、以降馬場は全日本の社長業兼タレントとしてプロレスと併行して活動することとなります。
タレント活動での馬場を語る上で欠かせないのが、かつて日本テレビで放送されていた「クイズ世界はShow by ショーバイ!」であり、そこでの馬場は様々な珍回答とアクションでたちまちお茶の間の人気を博しました。
また共演した逸見政孝がガンにかかり、闘病生活を送るようになってからは、早期回復を願って大好きな葉巻を絶ちました。また「Show by ショーバイ!」の最終回特番では、試合が終わってからすぐスタジオに駆けつけ、馬場自身の名場面も放送されました。
1998年12月5日には、日本武道館でラッシャー木村、百田光雄と組んで、渕正信、永源遥、菊地毅組と対戦しました。奇しくもこれが最後の試合でした。
その後病に倒れ、今から10年前の今日、1999年1月31日、ジャイアント馬場は肝不全の為亡くなりました。享年61歳でした。そして生涯現役でした。
同年4月17日、日本武道館で行われたファン葬には3万8千人が参加し、馬場を偲びました。また5月2日の東京ドーム興行では引退記念試合が行われ、過去の馬場の名場面を振り返るシーンが上映されました。
あの世界の巨人、ジャイアント馬場が亡くなってもう10年、日本のプロレス界は様変わりしてしまい、いつしかただの見世物小屋じみたショーにしか成り下がった感じがします。馬場が亡くなった翌年6月には、全日本プロレスは25人の選手が去り、中継していた日本テレビは中継を打ち切り、今やかつてのプロレス隆盛時代はどこへやら、です。