今年行われたアメリカ大統領選を制したバラク・オバマ氏の父方の母国であり、また今年北京オリンピック男子マラソンで金メダルに輝いたサムエル・ワンジルの母国でもあり、この国を代表する民族・マサイ族、
マサイマラ自然保護区やトゥルカナ湖国立公園群に代表される自然溢れる国立公園を多数擁する東アフリカの
ケニア共和国、今から45年前の今日、1963年12月12日はそのケニアがイギリスから独立した日です。
東アフリカに位置する
ケニア共和国、ここは昔からアラブ人が沿岸地域に住み着き、公益を行ってきました。15世紀の大航海時代にはポルトガル人が進出するも、アラブ人勢力の前に撤退し、徐々にアラブ人の影響力が高まり、
奴隷貿易や
象牙貿易などで栄えました。
19世紀に入ると、ヨーロッパ列強によるアフリカの植民地政策が始まり、ケニアもそのあおりを受けました。ケニアにはイギリスとドイツが進出し、権力争いの末イギリスが勝ち、ケニアは
イギリス領東アフリカとして、イギリスの植民地となったのでした。1888年には沿岸部に
イギリス東会社(IBEA)が設立され、19世紀の終わりごろには内陸部にまでイギリスの影響が高まり、1902年にケニア全域が完全なるイギリス保護領となり、後に直轄植民地となったのでした。
しかし第2次大戦後、これまでヨーロッパの植民地だった多くのアフリカ諸国で独立の気運が高まり、ケニアもそれに乗っかって植民地支配に抵抗しました。そんな中、1952年から1960年にかけてケニアで民族運動が高まり、ケニア各地の白人農場や警察署、軍事基地などを襲撃し、イギリスに抵抗しました。だがイギリスも武力で抵抗し、
ジョモ・ケニヤッタ(後のケニア初代大統領)など
ケニア・アフリカ民族同盟(KANU)の指導者は裁判にかけられ、またこの動乱はケニアのほとんどの民族を巻き込んで大規模なものとなり、1956年に当時のリーダーが逮捕されたことによりこの動乱は終結、両者多数の死傷者を出し、また宗主国イギリスも巨額の戦費支出を出し、この動乱は失敗に終わったもののこれがケニア独立を大きく近づけるものとなりました
(この動乱は「マウマウ団の乱」と呼ぶ)(またケニヤッタは裁判の後7年間の重度労役処分に科せられた、ちなみにケニヤッタの行動は他のアフリカ諸国にも多大な影響を与えた)。
そんな紆余屈折を経て、1963年12月12日の今日、
ケニアはイギリスから独立しました。初代大統領にジョモ・ケニヤッタが就任し、1978年まで大統領を務めました。また首都ナイロビにある国際空港の名は
ジョモ・ケニヤッタ国際空港と呼ばれ、ケニヤッタがいかにケニアにおいて多大な功績を残した人物であるかが伺えます。
その後、1978年から2002年までの24年間、
ダニエル・モイが大統領を務めましたが、モイは少数民族
カレンジン族の出身だった為、
キクユ族など多数派民族を冷遇し反対派を弾圧するなど強権的な姿勢と、またKANUによる一党独裁を強め、半ば独裁的な政治手法も相まって経済の停滞を招き国民からの非難が絶えませんでした。1992年にやっと複数政党制をしくものの既に遅く、その後も当選を重ね、2002年に政界を引退しました。
大体アフリカってどうして長期政権の国が何で多いんだろう?と思います(アフリカのほとんどの国では20年以上も国家元首に君臨しているのが多い)。その後
ムワイ・キバキが大統領に就任し、2005年には3年前から議会で審議していた憲法改正が承認されるも、国民投票の末否決、キバキは閣僚を解散し政権を振り出しに戻ってのスタートとなりました。だが2003年に東アフリカ一帯で起きた大干ばつの影響で、ケニアもそのあおりをうけ多数が犠牲となりました。
2007年12月には大統領選挙が行われ、
キバキが再選するもそれを不服とする野党勢力が抗議し暴動に発展、ケニア全体に
非常事態宣言が出され、多数の死者を出す結果となりました。これもだが、アフリカでは選挙結果を巡って暴動がなぜよく起こるんだろう?と思いますよ。
最近ではマラソンなど陸上競技の面で活躍がめざましいのが多く、これもケニアの認知度を高めてるのでしょう。ちょっと難しい話になってしまったでしょうか?
theme : 歴史
genre : 政治・経済