亀田一家の「凋落」の始まり

先月終了したテレビ朝日系のバラエティ番組「しくじり先生」に出演した亀田史郎氏と興毅氏、その中で「勝ちに固執してしくじった」ことをカミングアウトしたけど、当然この話題にも触れました。
それは興毅氏の弟・大毅の世界戦での行為が世間からのバッシングを浴び、一家揃って日本中から嫌われるようになった一因にあるけど、あの試合は今見てもボクシング史上最悪の試合だったと思うし、改めて亀田兄弟は過大評価されているとつくづく思うが、相手もこれで名前が知れ渡るようになったのだから余計記憶に残ってます。

今から10年前の今日2007年10月11日に行われたWBC世界フライ級タイトルマッチ、日本人最年少でのチャンピオンがかかる亀田大毅、これまで連戦連勝でチャンピオン間違い無しと思われたが、タイトルマッチ前の調印式で対戦する王者・内藤大助に対して「ゴキブリ」呼ばわりするなど挑発を繰り返したのだった。これは亀田兄弟の十八番でもあったが。
そして迎えた本番、内藤はガードの上から効率的にパンチを浴びせるなど大毅を圧倒、その後も大毅につけ入る隙を与えず試合を優位に進めて迎えた12ラウンド目、思いがけない展開になったのです!!

内藤に一方的に試合を支配されている上に判定に持ち込まれれば負けてしまう懸念から、内藤をダウンをすべく大毅がした行動は何と!! グローブの上から目潰しをしたり、内藤を抱えて投げようとするなど、まるでプロレスのような行為に及んだのです!! 無論ボクシングでは言語道断な行為で、レフェリーが制止しようとするもそれを無視したのだから、勝つ為ならここまでやるかと唖然としたね。相手の耳を噛んで即反則負けとなったマイク・タイソンみたいにならなかったのは、最終ラウンドだったからかも知れないが。

試合は判定へと持ち込まれ、内藤が当然勝利したのだが、一方の大毅、反則行為に走りまた試合前の挑発行為もあってか非難が集中、またこの試合で大毅のセコンドを努めた史郎氏と興毅氏が反則を支持していたことも発覚、亀田一家は揃って日本中から悪者となったのでした。
試合後内藤は「ポンサクレック(ポンサクレック・ウォンジョンカム)より弱かった」「国民の期待に応えました」とコメントしたが、亀田一家に初めて黒星をつけ、チャンピオンをなめるな!! って強気だったと思う。ただ亀田一家に対して一方的な不快感も見せました。

この試合を境に世間からバッシングを浴びることになった亀田一家、大毅はまたこの試合の4日後の10月15日にはJBC(日本ボクシングコミッション)から1年間のライセンス資格停止処分を受け、さらにその2日後には当時所属していた協栄ジムの金平桂一郎会長と史郎氏に付き添われる形で謝罪会見に臨んだわけだが、頭を丸めたのはいいものの終始うつむき加減でほとんど語らず、また史郎氏も反則行為を指示したのか聞かれても曖昧な回答に及んだのだから、かえって印象を悪くしたのでした。これを重く見て協栄ジム側は史郎氏に再度謝罪会見をするよう訴えたが、代わりに興毅氏が謝罪会見に臨んだけど、協栄ジムもこの試合で処分を受けたことから亀田一家に対する不信感を強めたのは間違いない。
しかし、これほど世間からバッシングを浴びたのに「この度は世間を騒がせて申し訳ありませんでした」もない亀田一家、試合前のビッグマウス行為も相まって余計世間から批判されてますが、勝てば官軍的な考えがもたらした言動には批判されて当然、ボクシングだってスポーツ、スポーツマンシップに則れない、て言うか則ろうとしない考えがもたらしたんじゃないですかね? 自身の問題行為を反省しない、かつての金田正一氏と同じだ(ロッテ監督だった1990年のある試合で、ボーク判定に不満を示しその判定を下した球審に暴行を加え30日間出場停止及び制裁金100万円の処分を受けたが、当の金田監督は自身の行為を正当化し審判を非難、その審判が「こんな奴がいるところで審判が出来るか!!」と激怒してシーズン中でありながら連盟に辞表を提出すると言う顛末にもなった)

その後内藤側に謝罪したことで騒動は沈静化したけど、この試合により日本中から嫌われるようになった亀田一家、勝ちにこだわって周りを見ない姿勢がもたらしたボロ以外の何物でもないと思うね。それを「しくじり先生」にて告白したけども。負けを恐れるあまりに勝つ為なら手段を選ばないではダメなのだ。
一方の内藤、この試合をきっかけに知名度が上昇し、一躍有名人になったのは言うまでもないです。

theme : ボクシング
genre : スポーツ

松本人志の「ご乱心」

90年代に爆発的な人気を博し、ダウンタウン人気を不動のものにした伝説のバラエティ番組「ダウンタウンのごっつええ感じ」、ダウンタウンらが繰り広げるコントや笑いは当時を知る世代にとって記憶に残っているけど、そのラストはあまりにも呆気ないものでした。
なぜかと言うと、ある騒動が原因で打ち切りに近い形での最終回になったことにあるけど、その当事者は他でもなく松本人志だったのです。

今から1997年の9月28日、本来であればこの日は「ダウンタウンのごっつええ感じ」の特番が放送される予定でしたが、フジテレビはこの年セ・リーグ首位を独走していたヤクルトスワローズのマジック・ナンバーが前日に1となったことで、急遽予定を変更してプロ野球中継に差し替えたのだった(フジ・産経グループであるヤクルトだし)。
この知らせを受けた松本は「話が違うやん!!」とプロデューサーに対して激怒、フジテレビ側から事前に連絡がなかったことを不服として「フジテレビの番組収録には金輪際出ない!!」と当時フジテレビで放送されていた冠番組の「HEY!HEY!HEY!」「一人ごっつ」の収録ボイコットを示唆するなどの強硬な態度に出たことで、松本は一時フジテレビとの関係悪化をもたらしたのでした。

修復の条件として「ごっつ」の打ち切りを決め、この日予定されていた特番は10月19日に放送、11月2日放送分を持って「ごっつ」は終了、人気番組だったのにこんな呆気ない結末は誰もが予想しなかったといえます。他にはかねてから「ごっつ」の番組内容がPTAなど良識派から名指しで批判され、改善勧告を度々要求されていることもある。
突然の終了については「松本の身勝手で番組が終わった」と松本の言動が原因だとして批判する声もあり、またフジテレビにおいてダウンタウンの番組が無くなるんじゃないかとの懸念もあったが「HEY!HEY!HEY!」は何事もなく放送された。騒動後松本は「フジテレビに恨みはない」と釈明し、騒動は終わったのだった。

ただ松本の言動に怒っていたのがテレビ関係者よりも野球関係者だった。
評論家諸氏から名指しで叩かれ、芸能界屈指の野球ファンである萩本欽一氏からは「野球中継に差し替えられるのは普通」とコメント(萩本についてはかつて「欽ドン!」にて、ある日の放送がリーグ優勝決定試合に差し替えられたが、普通に快諾した)野球関係者にすればリーグ優勝が決まる試合はテレビ中継するのが当然と言う常識が強いんでしょう(とは言うもののセ・リーグばっかじゃねェか)。

その後松本というかダウンタウンはフジテレビの番組に普通に出演してますが、あの騒動を水に流したと思いきや、フジテレビの過去のバラエティ番組を取り上げる特番で「ごっつ」関係の映像はあまり取り上げられないように「ごっつ」に対するわだかまりはまだ消えていない。

一歩間違えたらテレビから干されるレベルの言動をしでかした松本、いくら自分の仕事に誇りを持っているからといえそれが間違った方向に行けばこのようなことになるってことを、後年になって松本はあの騒動をどう思っているのだろうか。

theme : 松本人志
genre : お笑い

京田辺警察官殺害事件

いつの世も少年犯罪が絶えない昨今、年々凶悪化する傾向にあるのはいつから日本はこんなにおかしい社会になったのかと憂いたくなりますが、この事件も大人顔負けの残虐性が強い事件の一つとしてつとに有名です。
今から10年前の今日2007年9月18日に京都府京田辺市で、当時16歳の少女が警察官である父親を斧で殺害するという残虐な事件があったが、この事件は少女の嗜好とその後の影響力が強かったものとして有名です。

今から10年前の今日2007年9月18日午前4時頃、京都府京田辺市で少女は自宅2階の寝室で寝ていた父親を斧で斬りつけて殺害するという残酷な行為に及んだが、その後少女の母親が「父親が自殺した」と119番通報したけど、駆けつけた消防は不審な点があることからすぐに警察に連絡、京都府警京田辺署の署員が駆けつけたところ1階に手斧があり、傍らにいた少女の衣服に返り血がついていた為殺人容疑で緊急逮捕となった。
少女は警察の調べに対して父親の女性関係を不服としてギロチンにしようとしたと事件発生の数日前に近くのホームセンターで手斧を購入したことを明かしたが、そんな理由で手斧を購入、常軌を逸してるとしかいえない。

その後京都地検は殺人の非行事実で少女を家庭裁判所に装置したが、非行事実っていうか殺人事件を起こしておいて非行事実はないと思う。大人顔負けの凶悪犯罪起こしておいて18歳未満だから非行事実ってどうよ?
この少女はゴスロリ(ゴシック・ロリータ)や残虐描写の多い漫画やアニメに興味を持っており、普段からゴスロリ衣装を好んで着用して出歩くという周囲から異端視されてたが、またアニメーション系の専門学校に行きたいと言いながら父親に反対されており、殺害に手斧を用いた理由も「好きなアニメの影響」と供述している。殺害した際にもゴスロリ衣装を身に纏っており、いかに異常性丸出しかを物語る。自分の嗜好を親に否定されたことで殺害に及ぶってコト自体異常も異常を通り越してますけども。

その後少女は中等少年院送致及び保護処分判決を受けたが、事件を猛省している点を考慮して長時間の矯正教育が必要だという裁判所の判断を尊重したけど、これでいいのだろうか。

事件の余波は大きく、この事件から1週間後に長野県で同様の事件が起こったり、一部のアニメ(「school Days」など)がこの事件を想起する表現があるとして放送打ち切りに追いやられたりという顛末にもなったけど、少女がああいうアニメに興味があったという理由でこの手のアニメを放送禁止にするというのはやり過ぎ感があると思う。
確かに漫画やアニメの残虐表現は問題だけど、だからといってそれを一方的にバッシングしたところで片付くもんじゃないし、漫画やアニメに対する不当な偏見を助長するだけでしかありません。だったら2時間サスペンスドラマはどうなんだって反論もしたくなる。2時間ドラマにだって猟奇的な殺人表現や暴力的な表現があるのにそっちを批判せず、漫画やアニメだとすぐに「残酷だ」「青少年の人格形成に悪影響だ」って、おかしいよ。
だったら漫画やアニメにもゲーム同様レイティング制度を導入すべきか? そう言うと「表現の自由が~」って騒ぐ声もあるんだから、複雑だ。

多方面で影響をもたらした一つとして有名なこの事件、青少年なのに大人顔負けの凶悪犯罪を起こす風潮って社会に問題があると思います。

theme : あまりに酷い事件
genre : ニュース

リトルロック・ナイン

バージニア州シャーロッツビルで起こった白人至上主義者と反人種差別団体とのトラブル、相も変わらず人種差別問題がつきまとうアメリカ、最近でも人種がらみの事件が横行するなど、かの公民権運動時代に逆戻りしたと憂う声もあるが、公民権運動においてこの事件をご存知だろうか?
それは当時差別が横行していた南部諸州の中で早く白人と黒人が共学出来たものの、黒人の入学を良しとしない白人学生や州兵によって物々しい雰囲気となり、合衆国政府や軍まで介入するという事態となったのは言うまでもないです。舞台は南部・アーカンソー州の州都・リトルロックで、この高校が舞台です。
そんなわけで今から60年前の今日1957年9月4日は、アメリカの公民権運動の一つ、リトルロック高校事件が起こった日です。

1954年に教育現場において人種隔離政策は違憲であるとのブラウン判決を受けたのをきっかけに、アメリカ全土で白人と黒人が同じ学校に通うという融合教育化が進みましたが、当時ジム・クロウ法に基づく人種差別政策を維持する南部諸州ではそれに反発して判決を認めなかったが、その中でアーカンソー州は1957年に州都・リトルロックにあるリトルロック・セントラル高校で融合教育化が認めたのだが、当時のオーバル・フォーバスアーカンソー州知事は州兵をけしかけて黒人の入学を阻止し、白人の市民からも「黒人なんて入学させるか」と反発、リトルロックの市長はこれを受けフォーバス知事に法律を守るよう訴えるもフォーバス知事は無視、当時のドワイト・アイゼンハワー大統領に軍を派遣するよう申請するというトンデモない行動に出たのです。
この騒動はアメリカ国内のみならず海外でも報じられ、これでは自由を謳うアメリカのイメージに関わるとリトルロックの市長の訴えを認めて合衆国軍を派遣、入学する黒人学生の身の安全に務めたのでした。

1957年9月4日、リトルロック・セントラル高校に入学予定の9人の黒人学生は軍に守られる形で登校したのだが、無事に入学が認められても白人学生による心ない嫌がらせと暴力により決して安全ではありませんでした。その後も白人による学校包囲など殺伐とした雰囲気となったのはいうまでもないが、そこまでして黒人の入学というか在学を認めようとしない白人の横暴はイカレてるを通り越してます。

選考の末に9人の入学が認められたことで、この9人は「リトルロック・ナイン」と呼ばれ、公民権運動を象徴する人物にもなったのです。

9人のうち1人は白人によるヘイトクライムに耐えかねて退学したものの、残る8人はめでたく卒業するということになったけど、れでもフォーバス知事は融合教育化に反対し続け、融合教育化を義務化されたリトルロック市内の3つの高校を突如として並行するなど、人種差別丸出しの姿勢を続けたのです。オーバル・フォーバスってこう見ると正直頭のおかしい人間ですね。白人以外人間じゃないという排他的な理屈、現代だったら人種差別主義者のレッテルを貼られて社会的に追放されてるでしょうね。当時のアメリカ、特に南部諸州ではこんな人間でも州知事になれたけど、今となってはあり得ない。

リトルロックの全部の学校で融合教育化が実施されたのは1972年になってからだが、この9人の残した足跡は公民権運動の始まりともいうべきことで、黒人の権利と尊厳、人種差別の愚かさを後世に伝える意味でも語り継がれる出来事とすべきです。

theme : 差別問題
genre : 政治・経済

奴隷貿易とその廃止を記念する国際デー

本日8月23日は、奴隷貿易とその廃止を記念する国際デーですが、きっかけは1791年8月22日から23日にかけてカリブ海のハイチで大西洋奴隷貿易廃止のきっかけとなったハイチ革命が起こり、これを機に奴隷貿易廃止へと動く事になり、その日を記念誌てユネスコが制定したわけだが、奴隷制・奴隷貿易という歴史上の出来事を検証することを学ぶ日でもあるのです。

この日はアフリカやカリブ海諸国など主な奴隷貿易の被害者側だった国で盛大に祝われてますが、加害者側だったヨーロッパでも今から10年前の今日2007年8月23日にイギリスのリバプールにおいて国際奴隷制博物館が建立されたように、加害者側である欧米でも奴隷制及び奴隷貿易とは何かを見つめ直す動きも出ています。
なぜリバプールかというと、リバプールもかつては奴隷貿易で多くの富を得た歴史があり、道義的責任からこの地に奴隷制及び奴隷貿易を後世に伝えてその愚かさを語り継ぐと言う表れに取れます(イギリスでは他にも奴隷貿易で潤った港湾都市もあるが)。イギリスは奴隷制や奴隷貿易に対して反省の意は示すも謝罪には応じていない。それには大昔のことを今の世代が謝るのは間違いだという考えもそうだし、被害側であるアフリカも謝罪を要求していないことにもある。即ち過去のことを今の世代にその責任を追わせるのは間違いだと言うことだ。

この博物館は奴隷制及び奴隷貿易を後世に伝える目的であり、決して黒人による被害者ビジネスの道具ではないのです。奴隷制や奴隷貿易は事実だけど、従軍慰安婦は韓国による被害者ビジネスというか独善的な反日プロパガンダ以外の何物でもありません。黒人は特定アジアと違って虐げられた歴史を根に持って事あるごとに騒ぎません。
アフリカにとって奴隷貿易は植民地政策と並んで苦痛の歴史以外の何物でもないが、だからと言ってそれを根に持つのは良くないと言う大人な判断を持ってるといえます。そのアフリカから見て過去のことを根に持って騒ぐ特定アジアの態度は理解不能と映るのも無理はない。

ナチス・ドイツによるホロコーストよりも残虐な歴史上の出来事の一つである奴隷貿易、それについて今の世代はどう見るのか。他方日本、あまりそれについて全く教えてないような気がするけど・・・。

theme : 人権
genre : 政治・経済

デビュー戦でノーヒットノーラン

日本プロ野球において78人が達成したノーヒットノーラン、中でも初登板及び初勝利での記録は後にも先にもこの人しか達成していません。
その投手の名は近藤真一、かつて中日ドラゴンズで左の先発格として名を馳せたが、活躍した期間が少なくマニアックなファンでなければ覚えてない選手の一人だが、そんな彼を有名にし、また記憶に残る選手の一人になっているのは高卒ルーキーでありながら初登板でノーヒットノーランと言う離れ業というかセンセーショナル過ぎるデビューを飾ったことにあります。

今から30年前の今日1987年8月9日、ナゴヤ球場で行われた中日対巨人戦、この日中日の先発として初めて1軍のマウンドに立ったこの年のドラフト1位ルーキー・近藤、享栄高校時代はストレートとカーブを武器にエースとして活躍、高校生離れした風貌と貫禄も相まって注目を集めたことからこの年の大物ルーキーの一人でもありました。
いくら高卒ルーキーでもいきなりデビューさせないだろうと思いきや、この日の前日に中日は先発投手がいない状態となり(本来この日に先発予定の投手を前日の試合で使ったことも影響している)、困った池田英俊投手コーチだが、星野仙一監督が「あの高卒ルーキーがいるだろ」と近藤をこの日の先発に指名したが、当の近藤も先発あるかもと冗談半分で思ってたけどホントに先発を告げられたのだった。

午後6時20分に試合開始、近藤はいきなり巨人の1番打者・駒田徳広にストレートで挑むもそれを駒田が辛うじてファールにしたことで「緊張が取れた」と駒田を3球三振に打ち取ると、続く2番岡﨑郁、3番篠塚利夫を凡打に打ち取って上々な立ち上がりを見せると、その裏中日はこの年ロッテから移籍した落合博満が3ランホームランを放ちいきなり援護点を得ると、2回表も3者凡退に打ち取り、続く3回表に先頭打者を打ち取るも続く山倉和博にフォアボールを与えるが、後続を2者三振に打ち取って冷静なマウンドさばきを見せたのでした。
5回裏にまた落合がホームランを放つなど3点を追加し6-0、その時チームメイトだった石井昭男が「今日はヒットを打たれていない」とこの時点でノーヒットピッチングだったことを知ると、だったらノーヒットノーランを達成しようと近藤は意識するようになったのです。

7回表に先頭打者をエラーで出塁、初めてノーアウトからのランナーを背負うが、冷静に後続(3番篠塚・4番原辰徳・5番クロマティ)を打ち取ってノーヒットピッチングを続け、8回表もフォアボールを出しながら冷静なピッチングでヒットを与えませんでした。高卒ルーキーなのにここまで冷静なピッチングとマウンドさばき、誰しもがびっくりするだろう。
そして迎えた9回表、1番から始まる打線だけに最後の壁になるかと思いきや、1番と2番を冷静にサードゴロに打ち取ってあっさり2アウト、そして3番篠塚を迎えますが、首位打者獲得経験もある好打者だけにこれまでかと思ったが、近藤は篠塚をカウント2-1と追い込み、最後は落差の大きなカーブで篠塚を見逃し三振に打ち取り、この瞬間初登板でノーヒットノーランを達成したのです!!

プロ初勝利をノーヒットノーランで飾ったのは元広島・外木場義郎氏しかいないが、プロ初登板かつ初勝利をノーヒットノーランで飾ったのは後にも先にも近藤だけです。

センセーショナル過ぎるデビューで一躍有名となった近藤、この後も先発ローテに加わり3つの完封(3つの内2つは巨人から挙げた)を含む4勝をマーク、冷静なマウンドさばきと力のあるピッチングがファンのハートを掴み、このデビューの影響もあって同年NHK紅白歌合戦の審査員にも選出されるなど多方面で人気を博したのでした。
翌年は背番号を1に変え、前年の活躍もあり飛躍が期待されてオールスターまでに7勝をマークしたが、オールスター明けに肘を故障して戦線離脱、その後復活して1勝を挙げ8勝を記録しチームは優勝するものの、日本シリーズでは1試合に中継ぎとして投げただけでした。

その後はケガとの闘いもあって勝ち星を上げることなく、1994年オフに現役を引退、プロ通算で上げた白星は12勝と寂しい限りではあったが、たった12勝しか挙げてないにも関わらずなぜ近藤の名は記憶に残っているのかというと、デビュー戦でノーヒットノーランと言う離れ業をしたことがファンの記憶に残る選手としてつとに知られています。後に近藤は「あれがなかったらもっと投げれた上に勝ち星も多かったんじゃと言われるけど、あれがあるから自分の名を覚えてもらっている」とコメントしている。
プロ通算8年にも関わらず活躍した期間は1年目と2年目だけという前半しか活躍できなかった近藤だが、この年の近藤の存在感は輝いていたと言っていいでしょう。現在は中日で投手コーチを務めている。また引退後一時期スカウトに転身して岩瀬仁紀を発掘したこともつとに有名です。

theme : 中日ドラゴンズ
genre : スポーツ

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