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「鉄のカーテン」演説

 東西冷戦が終わって30年、その言葉も歴史上の出来事の一つでしかないけど、東西冷戦を語る上で欠かせないキーワード「鉄のカーテン」、冷戦時代のヨーロッパにおいて東西の緊張状態を表す揶揄表現だけど、この名付け親はあのウィンストン・チャーチルです。
 そんなわけで今から74年前の今日1946年3月5日は、チャーチルが「鉄のカーテン」演説を行った日です。それは即ち東西冷戦の始まりを告げるものでした。

 第2次大戦後のヨーロッパは資本主義国家である西欧と、第2次大戦中ソ連によって解放された東ヨーロッパ諸国はソ連により共産主義国家となったわけだが、アメリカを中心とする資本主義国家の西とソ連を中心とする東でヨーロッパは分断されることとなり、1946年3月5日、アメリカのハリー・トルーマン大統領の招待で訪米したチャーチルはミズーリ州フルトンのウェストミンスター大学にて「バルト海のシュチェチン(ポーランド西部にある都市でドイツ国境に近い)からアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。中欧及び東欧の歴史ある首都は全てカーテンの向こうにある」と演説を行い、チャーチルのこの演説により米ソの緊張状態及び東西に分断されたヨーロッパを揶揄する意味で「鉄のカーテン」として広まったのです。
 ソ連によって共産主義国家にされ、なおかつ西欧とのつながりまで絶たれた東ヨーロッパ諸国、新たなる苦難の始まりと言えます。

 これによりヨーロッパは東西に分断され、特にドイツは地理的なこともあってか国家そのものが東西に分断されるという形になったわけで、鉄のカーテンの影響をモロに受けたのは間違いない。

 ヨーロッパを長年東西に分断する表現として用いられた鉄のカーテン、その終焉は1989年にソ連でペレストロイカが始まりその影響で東ヨーロッパで民主化を求める声が高まり、同年5月にハンガリーがオーストリアとの国境にあった鉄条網を撤去したことで「鉄のカーテン」は存在意義を失い、その後の東欧革命やベルリンの壁崩壊、東西ドイツ再統一という怒涛の展開となったのです。
「鉄のカーテン」が無くなったことに伴い「中欧」という概念が復活し、その理由としては鉄のカーテンの向こう側にあった国家でもそう表記してほしいという訴えによるものかも知れません。

 東西分断の歴史を後世に伝えねばいけないヨーロッパだが、2015年にシリアなどからの難民がヨーロッパに殺到し、これに手を焼いたハンガリーが国境に鉄条網を改めて設置するという事態も出たが、これを新たなる「鉄のカーテン」と揶揄されることとなったけど、鉄のカーテンを壊すきっかけを作った側が逆にそれを作るというのは何とも皮肉です。

theme : 歴史
genre : 学問・文化・芸術

レッドパージ(共産主義系教員の排除)

 戦後日本における有名な反共活動というとレッドパージ、いわゆる日本共産党員及びその支持者を公職から追放した出来事としてお馴染みです。今も国政政党として存在している日本共産党だが、それを乗り越えて存在しているのってどうなんだかとすら思います。かねてから立場が左翼的で日本よりも特定アジア寄りな態度を取ってるんだから、社民党などと並んで日本の国政政党として認めたくないんだよね。
 そんなわけで今から70年前の今日1950年2月13日は、東京都教育庁が共産主義の教員を排除した日です。これはレッドパージの一部ですけど。

 第2次大戦後GHQによって治安維持法廃止・特高警察廃止といった改革の裏で、政治犯として収容されていた日本共産党の幹部らを無罪放免にしたりしたが、こう見ると戦前軍部によって弾圧されてきた共産主義者を解放したGHQは共産主義を容認したと映るんだよね。解放された共産主義者など左翼は労働運動を展開し、警察等と対立するようになったのだが。
 が!? GHQは日本共産党幹部や共産主義者を解放したものの、GHQというよりアメリカは共産主義を敵視するようになったのです。それは当時ソ連が東ヨーロッパ諸国を支配下に置くなど共産主義陣営を拡大したり、中国では共産党が台頭したことにより、アメリカとしてはこれ以上共産主義陣営が増えれば自国の影響力が低下する上に、またアジアにおいて共産主義が拡大することを懸念したのか、GHQは共産主義勢力に対して抑圧的になるのです。

 そんな中1950年2月13日にGHQの命を受けた東京都教育庁は共産主義の教員246人を公職から追放したわけだが、ハッキリ言って今となっちゃこれでも足りないくらいだ。教育界から共産主義的思想を根絶するチャンスだったのに、それをみすみす中途半端にやったんだから生き延びた共産主義的思想を持つ教員らが日教組というトンデモ組織を立ち上げたことを考えたら、教育界におけるレッドパージは継続してほしかったとすら思います。日教組なんてもんが出来たから日本の教育界というか社会全体が堕落する要因になったと思うとなお更だわ。

theme : 日本を正常な国に戻したい
genre : 政治・経済

ホテルニュージャパン火災事件

 この事件はホテルの安全管理というか防火対策のあり方を問うものとして有名だけど、このホテルのオーナーであり社長の対応のまずさもまた世間から顰蹙を買った事件としても有名です。
 事件の現場となったのはホテルニュージャパン、東京・千代田区永田町にかつてあったホテルとしてつとに有名ですが、あの火災事件後に閉鎖・廃業しました。
 そんなわけで今から38年前の今日1982年2月8日は、ホテルニュージャパン火災事件が起こった日です。

 ホテルニュージャパン、高度経済成長時代の1960年に開業して規模は地上10階から地下2階までな上に多様なコンテンツを揃えるという当時としては最先端のホテルでした。
 永田町という位置柄国会議事堂が近く、政財界の大物が頻繁に利用したり、政局報道をここで行うなど昭和の政治史の舞台にもなりました。
 しかし1960年代後半になるとヒルトンホテルやホテルニューオータニなど他にも高級ホテルが開業し、経営が一気に厳しくなるのだった。そんな中で1970年代に創始者である藤山コンツェルンが撤退し、代わって新進気鋭の実業家・横井英樹がホテル業界進出に積極的だったことでホテルニュージャパンを買収、それに伴い横井が社長に就任して経営の立て直しを進めたのだったが・・・!!
 横井は人員削減など経費を削減する緊縮策を実行、それにより消防設備や館内の緊急放送回路、火災報知機が壊れたにも関わらず無視、当然消防庁から安全面で問題があると警告を受けながらも横井は「金がない」と言い切ってそれを無視、それがあの最悪の事件に発展したと思うね・・・。ハッキリ言って横井の改革の弊害がこの事件で露呈したとも思う。

 1982年2月8日午前3時24分、ホテルニュージャパン9階のある客室に宿泊していたイギリス人の寝タバコを原因とする火災が発生、そこから火の勢いは増して(そのイギリス人客はことの重さに気づいて毛布で覆って消火するものの火は完全に消えていなく、その毛布に着火したことで拡大したと言えるが、防火対策でも消火対策でもこの姿勢は大間違い)10階から7階にまで及び、9時間にも渡って燃え続けたことで宿泊客ら33人が死亡、34人が負傷するという大惨事となった。そりゃ深夜に突然火災が発生したことで寝入った宿泊客にすればパニックでしかないし、また防火安全インフラ面で改善点が消防から度々あったのにそれをホテル側が無視したことで被害が拡大したとしか思えない。

 これほどの大火災を起こしながら、横井の対応というと。
「9、10階のみで火災を止められたのは不幸中の幸い」というあまりにも無神経で当事者意識に欠けたものだった上に「悪いのは火元となった宿泊客」とそのイギリス人客が悪いと責任転嫁に走る始末、これには呆れて物が言えないし、責任者としてあるまじき態度に世論は激怒したのだった。当然でしょう。
 さらにホテルニュージャパンの従業員からは横井に対する不満が続出したり、従業員に対する防災教育を実施しておらず結果として避難誘導する従業員は皆無だったことも発覚し、その後の釈明会見でも責任逃れに走る姿勢を取ったことで世論から余計バッシングを浴びるのだった。正直横井は金儲けと緊縮策しか考えず安全を疎かにしたことで最悪の結果をもたらしたと思えばそれまでだが、トップがこれでは下の者からは不満が出るわ出るわも当然です。

 火災発生から2日後の1982年2月10日に東京都から業務上過失致死傷及び消防法違反でホテルニュージャパンは営業停止処分、廃業という形であっけない終焉となったが、横井のやり方は最悪だったとしか思えない。
 この事件を受け東京都や消防庁、国は「再三に渡る防火体制不備の改善指導に応じない事業所は実名を公開する上に刑事告発」というルールが出来たけど、消防からの改善指導を無視したことで最悪の事態を招いた横井の責任は大きい、こういう事件を二度と繰り返さない為のルール。です。建築法においても防火体制設備及び避難経路の確保が尊ばれるようになったのは当然のこと。

 この事件の当事者というか加害者である横井はその後、東京地裁から業務上過失致死傷罪で禁錮3年の実刑判決を受けたり、10年間も申告漏れをしていたことが発覚したり、資産を安値で買い叩かれたりと不遇の人生を送り、1998年11月30日に虚血性心疾患で亡くなりました。

 ちなみにこの事件にあわや巻き込まれそうになった芸能人がいたことを知っているだろうか?
 それはビートたけしと明石家さんまで、たけしはこの事件の当日にホテルニュージャパンに宿泊しようとしたものの、たまたま金がなくて仕方なく高田文夫に借金して新宿プリンスホテルに泊まったことで難を逃れたというし、さんまは当時吉本興業がホテルニュージャパンをよく利用しててさんまもそうだったが、さんまは廊下がぼやけてたり部屋の空調が悪くて安心して過ごせないと不満で、自分で金を出すから宿泊先を赤坂東急に代えてくれと直訴、これに他のタレントがついて行ったことで難を逃れたというエピソードがあります。

 安全管理と防火対策を疎かにしたことで最悪の事態を引き起こしたホテルニュージャパン火災事件、後年の火災事件の際に防火設備に不備があったという報道を見るたびに、安全管理と防火対策を軽視するような事業所及び建物の責任者の責任だと言いたくもなる。今だったら業務停止命令が下ることもあるでしょう。

theme : 考えさせるニュース
genre : ニュース

日本のテレビ史の始まり

 本日2月1日はテレビ放送記念日として有名ですが、その理由として今から67年前の今日1953年2月1日にNHKが東京地区で初めてテレビ放送を開始したことにあるけど、この日は即ち日本のテレビ史の始まりの日といっていいです。

 戦後の日本文化において最も話題を博し、その後市民に身近な存在にまでなったテレビという媒体というか家電製品、従来のラジオにはない演者がブラウン管で一挙手一投足見せる演技に当時の日本国民は大いに沸いたのです。

 とはいえ黎明期のテレビは1953年1月にシャープが発売したもので17万5000円と高額なもので、一般国民にとっては高嶺の花のような存在でした(当時の一般会社員の年収数年分ぐらいあったとされる)。その為か繁華街や駅、公園などに街頭テレビを設置して大勢の人達に見せていたのです。
 当時日本テレビの社長だった正力松太郎はテレビの普及及びスポンサー獲得目的で繁華街などにテレビを設置して大勢の人たちを惹きつけたけど、当時は相撲やプロレス中継で関心をもたらし、台数こそ少ないけど高視聴率をアピールしてスポンサーを説得して日本テレビは黒字化を達成したのは有名。

 日本テレビが街頭テレビで大成功を収めたことで民放テレビ局が続々開局、昭和30年代になると白黒テレビが「三種の神器」の一つになると(他は冷蔵庫と洗濯機)、1958年(昭和33年)には東京タワーが開局、ミッチーブームが追い風となって一般家庭におけるテレビの普及率は増加、さらに昭和40年代に入るとカラーテレビの普及が進んで、街頭テレビは徐々に姿を消すようになったのです。

 その後は衛星放送や地上デジタル化、そして4K8K放送と技術が進歩しつつあるテレビですが、技術が進歩している一方で番組の質が年々低下しつつあるのは時代が変わってるからだろうか? 昭和及び平成前半期は作り込んでいるというかぶっ飛んだ番組が多かったけど、今ではそうでもないのを見ているとそれが躊躇に現れていると感じます。

theme : TV
genre : テレビ・ラジオ

アメリカ、モスクワオリンピックを「ボイコット」

 よく「政治とスポーツは別」なんていうけど、現実問題としてそれがうまく通用しないのが世の中、今年の東京オリンピック・パラリンピックにおいて韓国が放射能汚染を理由に下らないイチャモンをつけてるけど、これについて東京オリンピック組織委員会やJOC(日本オリンピック委員会)はなぜ抗議しないのか? スポーツ仲裁裁判所やIOC(国際オリンピック委員会)になぜ訴えないのかは疑問でしかない。それに「そんなに文句を言うならば出なくていい!!」って韓国の出場を認めない措置を下してもいいのだが。
 政治的な理由でスポーツの国際大会をボイコットしたケースといえば、1980年のモスクワオリンピックが有名です。そんなわけで今から40年前の今日1980年1月20日はアメリカがモスクワオリンピックをボイコットすることを決めた日です。

 1980年にソ連の首都・モスクワで行われた夏季オリンピック、ソ連とすればオリンピックを国威発揚の道具としており、モスクワで夏季オリンピックを開催することは悲願でもありました。1974年のIOC総会にてモスクワが1980年の夏季オリンピック開催地に決まり、ソ連国内ではオリンピックに向けた準備を着々と始めていたのだったが・・・!!

 開催前年の1979年にソ連はアフガニスタンへと侵攻、これにはその前年にアフガニスタンで共産党政権が発足したことで、それに対する反発がアフガニスタン国内で起こり、ムジャヒディンなる武装組織と共産党政府、それを支援するソ連との間で激しい紛争へと発展したのです。

 当時はまだ東西冷戦で、アメリカとソ連は当然いがみ合っていたわけだが、1980年1月20日、アメリカのジミー・カーター大統領はモスクワオリンピックをボイコットすることを発表、アフガニスタン侵攻への反発というか、前年カーター政権はイラン革命及びアメリカ大使館占拠事件が起こったことで、政府内から批判が殺到しており、またソ連と結んだSALT Ⅱ(第2次戦略兵器制限交渉)はソ連のアフガニスタン侵攻もあってこれに抗議する形で破棄、人権外交を謳ってきたカーター政権は珍しく強硬な態度に出たのです。
 アメリカがボイコットしたことで、日本や西ドイツ、韓国、中国、ムジャヒディンを支援するサウジアラビアなどのイスラム諸国がこれに追随したのです。ソ連のやり方に反発してのボイコットというか、日本はお決まりの対米追随である。
 一方でイギリスやフランスなどはボイコットせず、西側陣営も一枚岩ではなかったのか? それともスポーツに政治を持ち込むなんて本末転倒だという考えというよりここまでしてアメリカについて行くことはないってことですかね。ただイギリスは政府のバックアップが得られず、自国のオリンピック委員会が自分たちだけで選手を派遣するということとなった。さらにフランスなどは自国の国旗を掲げたり国家を斉唱することが認められなかった。これは後年ピョンチャン冬季オリンピックにおけるロシアと同じかも知れないが、背景は全く異なる。

 アメリカがボイコットしたのはソ連への反発だから仕方ない部分もあるが、他方日本、モスクワオリンピックに向けて国内が盛り上がっていたにもかかわらずアメリカに追随する形でのボイコットは、選手もマスコミもとんだ肩透かしを食らったとしか思えない。

 政治的なエゴでスポーツに暗い影を落とした出来事として有名なモスクワオリンピックボイコット、政治とスポーツは別と言ってもそれを理解しない。されないことはいつの時代も変わらない。

theme : オリンピック
genre : スポーツ

ゴールデンアックス(メガドライブ版)

このゲームはメガドライブ初期の頃に人気を博したアーケードからの移植作だが、テクノスジャパンからリリースされた「ダブルドラゴン」シリーズと同様にベルトスクロールアクションゲームの走りとも言えるものです。
このゲームの名は「ゴールデンアックス」、「ダブルドラゴン」や後年カプコンからリリースされた「ファイナルファイト」は現代を舞台にしているが、本作は中世ヨーロッパを舞台としたファンタジー世界が舞台で、タイプが異なる3人のキャラを操作して(2人プレイも出来る)敵を倒しながらステージを進んでいき、最終ボスを倒すというシンプルなものです。
そんなわけで今から30年前の今日1989年12月23日は、セガから「ゴールデンアックス」のメガドライブ版が発売された日です。なぜメガドライブ版かって? 私はこのゲームをメガドライブで知ったので・・・。

1989年12月23日にメガドライブ版ソフトとして発売された「ゴールデンアックス」、ストーリーは魔人デス・アダー率いる軍団によってサウス=ウッド王国は滅ぼされた上に、王と姫がデス・アダー軍に捕まったことから、王と姫を救出すべく立ち上がった3人の戦士がデス・アダー軍と戦う。というもので、この3人の戦士はいずれも家族をデス・アダー軍によって殺され、その復讐も兼ねていると思うと、分かりやすいストーリーです。
プレイヤーキャラはバランスタイプのアックス・バトラー、パワータイプのギリウス・サンダーヘッド、スピード及び魔法タイプのティリス・フレアーで、それぞれタイプの異なるキャラを操作して戦うという差別化が図られている。

剣や斧、さらに体当たりや飛び蹴り、動物を操る、魔法を使う。という多様な攻撃はアクションでありロールプレイングの要素もあります。デス・アダー軍の攻撃から逃げてきた人たちや、1面スタート時にメッセージが表示されたり、次のステージに行く途中で古い地図とストーリーが表示されたりと中世ヨーロッパ的な展開も多いけど、そのメッセージは英語表記で当時は正直ちんぷんかんぷんだったけどね。

ベルトスクロールアクションゲームに珍しい中世ヨーロッパを舞台とした世界観、メガドライブ版ではビギナーモードなる初心者向けモードもあるから、アーケード版を知らないユーザーへの配慮もあります。さらに対戦モードもありで、アーケード版にない要素が加わって非常にいいです。多くのハードにて移植されたくらい人気を博した本作だが、やはりメガドライブ版のイメージが強いです。

theme : レトロゲーム
genre : ゲーム

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アジシオ次郎

Author:アジシオ次郎
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