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ピザの日

本日11月20日はピザの日なる記念日ですが、それはピザの原点であるピッツァ・マルゲリータの由来である19世紀のイタリア王妃マルゲリータ・ディ・サヴォイア=ジェノバの誕生日がこの日ということで、貴族でありながら庶民的な料理だったピザを好んだことから、この日がピザの日となったのです。ちなみにこの記念日を作ったのは凸版印刷(現・TOPPANホールディングス)です。

16世紀にトマトがヨーロッパに持ち込まれたわけだが、当初は食用でなく観葉植物扱いだったけど、イタリア・ナポリではトマトをパンに乗せて食べることが定着し、これがイタリア各地に広まってその後アメリカが世界に広めたことから、ピザの認知度が広がったのは言うまでもありません。
無論日本でも定着し、冷凍ピザに始まり飲食店でもピザを取り扱う店(喫茶店・洋食店・ファミレス)が増えて、その延長でピザトーストも出来たんだから(当初は高価だったピザをもっと手頃な値段で提供できないか考えた末のアイデア)、さらに宅配ピザの普及も追い風となって日本の食文化に根付いたのは知っての通り。

かくいう私もピザは好きでして、はじめは冷凍でしか食べる機会がなかったけど、その後シェーキーズが近くにできたことで初めて本格的なピザに触れたけどね。サイゼリヤやカプリチョーザのピザも当然いい。
スーパーなどで買った際、オーブンに入れる前にピザ用チーズで追加して焼くからチーズ増しにしちゃうけども、チーズがたっぷりあるほうがピザって感じがすると思いますが、どうでしょうか?

theme : グルメ/お酒全般
genre : グルメ

屋敷、高木らを解雇

毎年この時期のプロ野球界はFA(フリーエージェント)宣言した選手の動向、メジャー行きが噂される選手の動向など話題を集めますが、その裏で選手によっては戦力外通告という非情な措置を突きつけられるのもあったりで、来シーズンを見据えたチーム作りを各チームとも行っています(早くも秋季キャンプを実施しているチームもある)。

そんな中30年前の今日1993年11月8日、横浜は新たなチームカラーを作る為かベテラン選手の大量解雇という措置に踏み切ったみたいです。
1993年、球団名を「横浜大洋ホエールズ」から「横浜ベイスターズ」と変えて、近藤昭仁を新監督に迎えて再出発を図りましたが、ベイスターズの初年度は57勝73敗の5位で終え、その年のオフにフロントは巨人の駒田徳広がこの年のオフから導入されたFAを宣言して移籍するのでは? という噂を聞きつけその獲得を目指して思い切った英断に踏み切るのだった。
1993年11月8日、フロントは横浜市内のホテルに6人の選手が呼ばれたけど、その面子は屋敷要・高木豊・山崎賢一・市川和正・大門和彦・松本豊といずれもチームの中心選手というより前身の大洋時代に主力を担った者ばかりで、その6人に対してフロントは躊躇なく今シーズン限りで解雇することを突きつけたのです。

突然球団から突きつけられた非情勧告に高木は「いきなりクビと言われても・・・」と驚きを隠せず、屋敷は「ゴミをゴミ箱に捨てるかのように」と憤りに満ちた発言をするなど、長年チームの主力として活躍しながら突然解雇通告を突きつけられたことを不服としたのだった。会社でいえば長く会社に貢献して部長にまで昇進したのに、経営陣からいきなり「明日から来なくていいです」と言われるようなものです。コレは。

なぜ横浜はかつてのチームの中心選手を大量解雇したのか? これには駒田獲得の資金に充てるのでは? という目測も浮かんだが、チーム名がベイスターズに変わったことで前身の「横浜大洋ホエールズ」色を消そうと、フロントが思い切った刷新に踏み切ったと思うね。チームを若返らせる為にこれまでの中心選手に見切りをつけるというのはよくあることだが・・・?

屋敷などはこの年全く活躍できず解雇されたのは仕方ない部分があるけど(市川・大門・松本はこの年一軍出場すらなかった)、高木はこの年も全試合に出場し主力だったものの解雇されたっていうからこれも驚きである(前年のオフに契約更改した際に年俸調停したことがフロントに嫌われた部分がある)。

その後高木は日本ハムに、屋敷は巨人に、山崎はダイエーに、大門は阪神に移籍するも(市川・松本はそのまま現役引退)4者とも目立った活躍はできず(屋敷は高い守備力を買われて守備要員としてチームの優勝及び日本一に貢献した)早々と引退してしまったけど、一方駒田は翌年横浜にFAで加入し、1998年のリーグ優勝及び日本一に貢献するなど効果が出たのだから、いい部分があったと言えるけど、逆にチームに長年貢献した主力選手を躊躇なく解雇するというフロントの姿勢は「功労者に冷たすぎる」という批判を浴びたのは言うまでもありません。それはどのチームにも当てはまる話であるけど。
前々年に田代富雄、前年に遠藤一彦、この年は斉藤明夫が引退したこともあり、この大量解雇で一気に「横浜大洋ホエールズ」色は払拭されたような気がするんだが。あとから考えたらば。

theme : プロ野球
genre : スポーツ

「ドーハの悲劇」から30年

今から30年前の今日1993年10月28日は、あの「ドーハの悲劇」が起こった日で、日本サッカーの歴史にとって忘れることの出来ない出来事の一つとして数えられますが、この出来事は日本サッカーにおいてターニングポイントになったものでも有名です。
これについてはこちらも見てくださいませ。→ 日本サッカー史上最も忘れられない日

知っての通り、1994年にアメリカで開催されるサッカー・ワールドカップのアジア最終予選で最後まで本大会出場の可能性を残したものの、最終戦のイラク戦で2-1とリードしながら後半ロスタイムにイラクにまさかの同点ゴールを決められて、2-2の引き分けに終わって最終的に3位で終わり(1位サウジアラビア、2位韓国)ワールドカップ出場を閉ざされた。というものですが、今思えば最後の最後で引き分けに終わり出場を閉ざされた。というのが主な理由に挙げられるけど、なぜ土壇場で日本はワールドカップ出場を果たせなかったのかという見解は今思えばたくさんあると思います。

まずこの年に始まったJリーグは一大ムーブメントをもたらし、当時は週に2回も試合が行われ、また延長戦やPK戦を設けていたことから、選手たちにとって過密スケジュールだったことでコンディション不良を訴える者も多くいて、ベストなコンディションで最終予選に挑めなかったこともそうだし(最終予選1ヶ月前に実施されたスペイン合宿ではレギュラーにケガによる離脱者が出て再選考せざるを得ない状況も発生した)、またこの最終予選ではカタールでのセントラル方式だったことで、中東びいきな状況下の試合を強いられたせいか中東勢に1勝も出来なかったことも挙げられるが(今予選で挙げた2勝は北朝鮮と韓国から、対中東勢だとサウジアラビアとイラクに引き分け、イランには負けを喫した)、国際試合にありがちなアウェーの雰囲気に飲まれたってことだ。
それと最終戦となるイラク戦、試合中盤で日本は運動量が低下したことで中盤の選手を投入して逃げ切りを図ったもののベンチの判断は追加点を狙いに行ったのかフォワード2人(長谷川健太に代わって福田正博・中山雅史に代わって武田修宏)を投入して裏目に出たという見解もあるけど、ピッチとベンチの意思疎通が機能していなかったと思うね。これについて当時チームのキャプテンだった柱谷哲二は「この時初めてオフト監督が自分たちの考えとズレた采配をした」と証言しているが、状況判断を誤ったってことだ。それより前のイラン戦に負けたことも影響しているけど、メンバーを変に固定したが為に相手に攻略されやすく、画一的なやり方の限界を痛感したと思うね。
経験不足という未熟さを露呈したことで最終的にワールドカップ行きを閉ざされた日本だが、過密スケジュールによる選手たちの疲労の蓄積(このせいで左サイドバックの都並敏史がケガで離脱、それに代わる人材がいなかった【本来ボランチである三浦泰年、センターバックである勝矢寿延を使わざるを得ない状況に】ことで選手層の薄さも露呈したが)、勝っている時の時間の潰し方が分からずに状況判断を誤ったことがロスタイムの同点ゴールにつながったという指摘、他にもプロ化して間もなかったことで選手に対するケアや環境が進んでおらず、また当時チームに専属コックがあまりおらず、乏しい食生活を強いられた(現地の食事を食べざるを得ない状況に置かれた、また最終予選開催地のカタールはイスラム国家なことで豚肉が食べられなかった)ことが体力不足をもたらしたという課題も発生したし(これらは後年に解消されたが)、アウェーの厳しさを知らない為に選手たちのモチベーションが上手く調整出来ずに肝心なところで負けたということも挙げられます。それといきなりプロ化した国が出れるほど甘くないってことだ。

ドーハの悲劇は後年の日本サッカーを大きく変えるきっかけ(選手たちの待遇改善、アウェーの厳しさを知る、状況判断力と意思疎通の強化)になったのは言うまでもないが、世間一般のサッカーのワールドカップに対する認知度を高めたことや、代表戦への関心を高めることもまた大きなきっかけとなったのではないでしょうか。

theme : サッカー日本代表
genre : スポーツ

ライオンズ、福岡から埼玉へ

今は埼玉県所沢市を本拠地とする埼玉西武ライオンズ、かつては福岡を本拠地としていたけど、ライオンズを買収したのは国土計画、かつて西武グループの筆頭企業だったわけで、プロ野球界に参戦することで知名度をアップさせようとしたのが狙いでした。そんなわけで今から45年前の今日1978年10月12日は国土計画がライオンズを買収した日です。

1950年代後半から60年代初頭にかけて黄金期を築いた西鉄ライオンズ、その後は黄金期を築いた主力選手の引退、また1969年に起こった黒い霧事件の影響で一気に弱体化、1972年オフに西鉄は球団経営を止めて「福岡野球会社」が発足したことで球団は維持したものの、リゾート開発を担っていた太平洋クラブがメインスポンサーとなって翌年に太平洋クラブライオンズとして新たな一歩を踏んだものの、ロッテオリオンズとの遺恨試合もあって一時期盛り上げたもののチーム成績は振るわず、1976年オフに太平洋クラブの経営が悪化したこともあり新しいメインスポンサーを探さざるを得なくなって、クラウンガスライターというライター会社がスポンサーとなってクラウンライターライオンズとして再出発もチームは低迷、1977年のドラフトでは法政大のエース・江川卓を強行指名するも「九州は遠い」と江川が難色を示したことで頓挫したのは有名。

1978年10月12日、クラウンのオーナーだった中村長芳は国土計画の堤義明社長と会談し、ライオンズを国土計画に譲渡してフランチャイズを福岡市から埼玉県所沢市に移転することを決めたけど、パ・リーグは中村の要請もあり緊急のオーナー会議を開くと中村はその後球団譲渡を報告して、12球団のオーナー及び代表者会議の了承を得て来シーズンからライオンズは「西武ライオンズ」として再出発することになるのです。

ただ長年本拠地だった福岡市では当初所沢市への移転に反対する意見が強かったが、最終的には受け入れたのだった。
ライオンズを買収した堤だが、本拠地を移転しただけでなく福岡時代をなかったことにする方向性を取るなど、歴史の否定に等しい姿勢を取ったのです。前身球団のイメージを払拭したいのは分かるが、球団の歴史を尊重しない姿勢は堤の一方的なエゴに他ならない。それでもチームの名称を変えなかったことだけはいいけど。

西武ライオンズとして再出発を図ったライオンズだが、同年11月に読売ジャイアンツというか読売グループとの全面戦争的な事態になるあの事件が起こったのは言うまでもない。

theme : プロ野球
genre : スポーツ

秋分の日

本日9月23日は秋分の日、春分の日と同様昼と夜の長さが同じになる日で、彼岸と同様ここから寒くなったり暑くなったりの境界線となる日でもあります。てか秋分の日って彼岸の中日であります。

この時季になると稲の収穫が各地でちらほら行われますが、ここ最近は猛暑の為かそれが早まる傾向もあるけど、とりわけ今年は地域によっては猛暑続きで雨不足という傾向もあったせいか、米の生育に悪影響が出てくるのでは? って懸念もありました。

ここから寒くなる次第ですが、何卒健康に気をつけて過ごして欲しい次第です。
ついこの前まで暑さに参っていたのにいきなり寒くなる。気温の変化ってのはホントに警戒したくなります。これも温暖化の影響でしょうか・・・。

theme : こんなお話
genre : ブログ

マリ共和国

西アフリカ最大の内陸国で、トンブクトゥ遺跡が有名なマリ共和国、歴史においてはマリ帝国、ソンガイ帝国といった国家が栄えたものの、19世紀にフランスの植民地となってフランス領スーダンの一つに組み込まれましたが、そのマリは今から63年前の今日1960年9月22日に独立国家になったけど、当初は同年6月に隣国・セネガルとともに連邦国家として独立したわけだが、同年8月にセネガルが連邦から離脱して単独国家として独立、セネガルとマリで価値観が対立して関係会ったをもたらしたことでセネガルが分離独立したことで、同年の9月22日にマリ共和国として独立国家したわけです。
当初連邦国家として一緒にやっていこうと言いながら、価値観の違いで対立して分離するというケース、以下に連邦国家の運営の難しさを裏付けるし、多民族集団であるアフリカにおいて異なる民族同士をまとめるのは容易じゃないってことだ。ましてやヨーロッパによる植民地政策のせいで民族バランスが歪になったことも原因に挙げられるが。

独立国家となったマリだが、初代大統領モディボ・ケイタは中国やソ連との関係を強化し、農村共同体を基盤とするアフリカ社会主義を掲げたものの、社会主義政策による国有化で生産が停滞、セネガルとの関係悪化による輸出ルートの寸断などで経済は悪化(ギニアやタンザニアもだが)、最終的にセネガルとは和解したもののケイタの独裁体制に対する国民の反発は収まらず1968年に軍部のクーデターによりケイタは失脚、しばらく軍事政権の時代となったのです。
1991年にアマドゥ・トゥマニ・トゥーレ空挺部隊司令官によるクーデターによって、1968年のクーデター以来実権を握ってきたムサ・トラオーレ大統領を権力から引きずり降ろし、トゥーレはそのまま暫定政府をしいて民主化を進めると宣言、その翌年の大統領選挙でアルファ・ウマル・コナレが当選し、初めて民主的な選挙で選ばれたコナレは民主的な政権運営を行い、複数政党制や言論の自由を認めるなど独立以降独裁政権や言論弾圧による不満が溜まっていた国民を納得させたのでした。2002年にコナレが退陣しトゥーレが大統領に就任したけど、民主的な政権運営を維持するなど、西アフリカでも数少ない民主制になったのですが・・・!?

その一方で北部のトゥアレグ族が武装蜂起して、2012年に分離独立を目論もうと北部を掌握、軍内部から武器不足の不満が出て同年に軍事クーデターに発展してトゥーレは失脚、イスラム系反政府勢力が暗躍してトンブクトゥの聖墓が破壊されるという惨事に発展、このせいで北部はイスラム系武装組織「アンサル・ディーン」の支配下に置かれ、翌2013年に旧宗主国フランスが軍事侵攻、政府軍とともにイスラム系反政府勢力掃討に及んだのは言うまでもない。

その後はと言うと政府は安定せず、汚職や腐敗が目立ち経済も当然停滞して、2022年にはロシアの民間軍事会社「ワグネル」に暫定政権が接近して武装組織とドンパチを展開しているわけだが、これを受けフランスは軍事的な関係を打ち切り、駐留しているフランス軍を撤退するということになったが、マリ国内において反フランス感情が高まりその一方で親ロシア感情が高まったことを裏付けます。

独立したものの社会主義独裁政権→軍事政権→民政移管→民政失敗で再び軍事政権。と途上国にありがちなケースとなったマリ、こういうケースはアフリカにおいても多々あるのではないだろうか。

国家として迷走状態になったマリ、そのマリといえば京都精華大学で学長を務めたウスビ・サコ氏、トッテナム・ホットスパー(イングランド)やセビージャ(スペイン)などで活躍した元サッカー選手、フレデリック・カヌーテなどのイメージが強いです。

theme : マリ
genre : 海外情報

衣笠祥雄、連続試合出場記録の危機

5年前に逝去したプロ野球界のレジェンドで「鉄人」こと衣笠祥雄、その彼が誇る記録といえば2215試合連続出場なのは承知の事実だが、1試合も休まず出場し続けるのは簡単なことではありません。仮にその途中で長期離脱に当たるケガをしようもんなら特にだけど、今では金本知憲もそうだが衣笠も試合途中で長期離脱に当たるケガをしながらもその次の日に出るというのはスゴいと言うかなんと言うか・・・(すぐに故障者リスト入りするメジャーリーグでは考えられないが)。
このエピソードは、衣笠にとって連続試合出場の記録が途切れかねないものとして有名だが、それ以上に衣笠の人間性も垣間見るものです。

今から44年前の1979(昭和54)年8月1日に広島市民球場で行われた広島対巨人戦、巨人が7回表までに7-1とリードして迎えたその裏、巨人の先発投手・西本聖が先頭打者の三村敏之にデッドボールを与え、その後2アウトを取るも続く萩原康弘にデッドボールを与えたことで球場内はざわつき、そんな中で迎えた打者は衣笠、その西本が衣笠に内角シュートを投げてなんと衣笠の左肩を直撃!! デッドボールを受けた衣笠は打席に仰向けに倒れる。この回3度目のデッドボールを受けた広島ナインは「西本!! 許さん!!」と言わんばかりにベンチを飛び出し、巨人ナインも負けじと飛び出したことで乱闘に発展、自分の投球が原因で乱闘を招き、また衣笠にぶつけてしまったことから西本は衣笠の元へ駆け寄り謝罪したが、その衣笠は「俺は大丈夫だ、危ないから早くベンチに戻れ」と西本に怒るどころか気遣ったのだから、なんて神対応。普通は怒るけどそうしない姿勢は「聖人」と呼んでいいです。

この試合はどうなったかというとこのハプニングで西本は一気にメンタルをやられたのか崩れて8-8の引き分けで終わったけど、だが問題は衣笠の状態だった。検査の結果左の肩甲骨を骨折しており、全治2週間を要するものとなったことでこれで連続試合出場の記録は途切れると誰しもが思ったのだが・・・!?(試合後西本は衣笠がケガをしたと聞いて衣笠に謝罪の電話をかけたけど「心配するな、それより勝っていた試合を落としてもったいないことをしたんだぞ」と逆に気遣われた)
なんと衣笠は翌日の試合に代打で出場し、広島ファンのみならず巨人ファンからも拍手が上がったけど、巨人側からすれば衣笠をケガさせて申し訳ない気持ちもあったのか、ケガに耐えて出場したその姿勢を素晴らしいと感じたんでしょう。その衣笠は江川卓の前に3球三振に取られるも3球ともにフルスイングだったこともそうだし、試合後に「1球目はファンの為に、2球目は自分の為に、そして3球目は西本君の為にスイングした」と振り返ったけど、前日あんなケガをしながらも出るのって今では考えられないし、古葉竹識監督もよく出場を認めたなと関心します。

この出来事は衣笠にとって最大の危機だったけど、逆に衣笠の神対応が評価されるエピソードとして有名です。

theme : 広島東洋カープ
genre : スポーツ

ファミコン誕生40周年

今から40年前の今日1983年7月15日にリリースされたファミコンことファミリーコンピュータ、日本のゲーム史において欠かすことの出来ないハードの一つですが、当時は社会現象になるなどブームを巻き起こし「スペースインベーダー」以来、いやそれ以上にゲームが普及しかつ家庭用ゲーム機の時代を到来させたのです。ファミコンが出てくるまでゲームといえばゲームセンターでやるものってイメージが強く、自分の家でもゲームが出来るという触れ込みも普及の原動力になったといえます。

今から40年前の今日1983年7月14日に任天堂からリリースされたファミコンことファミリーコンピュータ、同時期にリリースされたゲーム機の中で最も出荷台数が多かったけど、これには手頃に買える価格に設定したことに加えて多彩なソフトをリリースすることで普及に貢献したのだった。
当時はまだ家庭用ゲーム機及び低価格帯のコンピュータ市場は黎明期だったことから、任天堂に加えてエポック社・セガなどが競い合う状態だったけど、ファミコンは任天堂自身のソフト開発力に加えてサードパーティを確保することでラインナップを豊富にしたことから人気や知名度を向上させ、ファミコン誕生から2年後の1985年に発売された「スーパーマリオブラザーズ」の大ヒットに伴いブームが起こると品薄状態になるわで、ファミコンは市民権を得たのでした。

「スーパーマリオブラザーズ」のブームでファミコン人気が高まったことから、ゲーム雑誌が多く出たり(「ファミコン通信【現ファミ通】」や「ファミリーコンピュータMagazine」など)、ゲームソフトを買い取って中古販売するリサイクルショップやファミコンショップも多数あったり、児童向け漫画雑誌「コロコロコミック」「コミックボンボン」などでも当然取り上げられてファミコンを題材にした漫画も多く出たり、高橋名人に代表されるゲーム名人の登場及びその人気も相まってか子供たちを中心にファミコンはムーブメントを巻き起こしたのは事実(中には当時人気を博していた芸能人を題材にしたゲームもリリースされた)。それと人気ソフトを購入した際に他のゲームもまとめて買わせる抱き合わせ商法なるものも報告されたけどね。
だがブームの一方で保護者層や教育関係者からは子供の視力及び体力、学力やコミュニケーション力、モラルの低下を懸念する声も多く、ファミコンに限らずゲームそのものに嫌悪感というか不当な偏見を抱く保護者や教育者もおり良くも悪くもファミコンの認知度が高いことを裏付けます(その名残で未だにゲーム全体を「ファミコン」「ピコピコ」と呼んでいる世代もいる)。このことについて高橋名人が保護者層などのゲームへの批判を和らげる為に「ゲームは1日1時間」ってフレーズを発信したのは有名な話。これについてはこの記事を参照のこと。→ 高橋名人と言えばあの「名言」も忘れてはならない

家庭用ゲーム機の時代を築き、多くの名作(クソゲーもだが)を輩出したファミコン、かくいう私も当然その世代ですからファミコンについての思い入れは当然あります。今もバーチャルコンソールなどでの復刻(ファミコンミニ)版でもファミコンのゲームはプレイできるけど、当時を知る世代もファミコンを知らない世代も楽しめると思います。

theme : ▼ゲームの話
genre : ゲーム

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