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国家の日(スロベニア・クロアチア)

 本日6月25日は東ヨーロッパのスロベニアクロアチア「国家の日」という祝日ですが、なぜこの日がそうなのかは今から29年前の今日1991年6月25日にスロベニア・クロアチアが当時のユーゴスラビア連邦から分離独立を宣言したことでそれを記念して祝日となっています。

 第2次大戦後セルビア主導で連邦国家となったユーゴスラビア、7つの国境・6つの共和国・5つの民族・4つの言語・3つの宗教・2つの文字・1つの国家と形容された多民族・多言語・多宗教国家として歩んだわけだが、1980年に国家をまとめていたヨシップ・ブロズ・チトーが亡くなると各地で民族主義が復活、セルビア主体の政治体制に対してクロアチアから不満が高まり、またセルビアも自分たちの影響力が削がれると危機感を持つようになったり、また経済的に発展しているスロベニアとクロアチアは未だ共産主義的な体制への不満を顕にしたり、経済的に遅れた地域は共産主義でないことへの不満から民族・経済的な理由も相まって連邦制はぐらつくのだった。

 それでも連邦維持の為にスロベニアとクロアチアは連邦の権限を強くする一方で、各共和国の連邦内の自治権を保障しろ、国家連合への移行を認めろなど訴えるも、セルビアとモンテネグロがこれを拒否、これによりスロベニアとクロアチアはユーゴスラビア連邦から離脱して自分たちの独立国家を持つ! と反目するようになった。
 とはいえ豊かなスロベニアやクロアチアにすれば、貧しいセルビアの言いなりになることに我慢がならなかったことから今まで溜まっていた不満が爆発するきっかけになったと推測します。

 そして1991年6月25日にスロベニアとクロアチアがユーゴスラビア連邦からの分離独立を宣言、ドイツがEC(ヨーロッパ共同体)を押し切ってスロベニアとクロアチアの独立を承認したことで独立国家となったのでした。とはいえドイツが独断でスロベニアとクロアチアの独立をゴリ押ししたのは、ユーゴ国内がキナ臭くなったことでだったら独立を承認すれば戦争にならないとして単独承認に踏み切ったものの、ドイツの目論見は後から考えたら的外れだったと言いたくなる。
 なぜ的外れか? スロベニアは独立宣言後にセルビア主体のユーゴ連邦軍と交戦したものの10日間で集結、逆にクロアチアは長期化して泥沼化の事態を招いた上に、その後のボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争はさらに長期化して泥沼化したことから、連邦内の国家が独立を宣言すれば戦争にならないという考えはあまりにも稚拙だったし、後年のチェコとスロバキアのようにはならなかったと思う。

 スロベニアはセルビアと国境を接していない為にあっさり紛争は終わったものの、クロアチアはセルビアと国境を接している上に同国内のセルビア人も巻き込む形で悲惨な紛争となった。

 真っ先にユーゴ連邦から独立を宣言したスロベニアとクロアチア、独立について前者は早期収束、後者は悲惨な結末という両極端なもので改めて独立国家として再出発したわけだが、両国ともその後はEU(ヨーロッパ連合)に加盟したりで現在に至っています。

theme : 歴史雑学
genre : 学問・文化・芸術

エリマキトカゲ来日

 かつて日本国内においてブームを巻き起こした動物たちは多々ありますが、これもまたブームを浴びたけど逆にあっけなくブームが去ったことで一瞬だけの夢に終わったものです。
 その動物はエリマキトカゲ、テレビCMで火がついて後に音楽やドラマにまで出るなどブームを巻き起こしました。
 そんなわけで今から36年前の今日1984年6月15日は、エリマキトカゲがオーストラリアから来日した日です。

 オーストラリア北部からニューギニア島南部にかけて生息するエリマキトカゲ、主に森林に生息して普段は普通のトカゲを変わりませんが、危険を察知すると襟上の皮膚を広げて威嚇して、二本足で走行するという変わったトカゲとして有名です。
 そのエリマキトカゲに目をつけたのが動物学者の千石正一で、現地での映像を見て奇妙な生態に関心を示したのかこれはブームになると見込んでいたみたいです。

 1984年に三菱自動車がリリースしていたミラージュのCMに使われたことで日本中でエリマキトカゲの話題が広がり、そんな中1984年6月15日にオーストラリアから初来日したエリマキトカゲ、その生態見たさに世間の関心は高く、かつてのパンダよろしくブームとなりました。その影響は音楽にも及び、かまやつひろしなどがエリマキトカゲをテーマにした歌を出すなどまさに大人気でした。またおもちゃなども作られるなどブームを起こした。

 ただ!! エリマキトカゲが襟を広げるのは前述のホントに危険を察知したときだけであって、普段は全く広げないことからそのギャップを理解していなかった世間のせいでエリマキトカゲを取り巻く環境は悪化、襟を強制的に広げられそうになったりとストレスから早死にした個体もいたり、ブームになった一方でペットとして飼う者は少なく(飼うのが難しい種だった)、ブームにより日本国内に持ち込まれたモノが半分以上は密輸だったことも発覚、動物保護の観点からバッシングを浴び、エリマキトカゲブームは1年であっさり終わったのでした・・・。

 あれだけブームを起こしながら人気高騰のせいであっさり終わったエリマキトカゲ、爬虫類マニアにとっては人気だけどエリマキトカゲブームは一瞬だけの夢に終わったと思うと、日本人の移ろいやすい性格もそうだが、やはり動物の倫理的な扱いに対する理解が少なかったことがブームのあっけない終焉を迎えたと思うね。

theme : 動物・植物 - 生き物のニュース
genre : ニュース

「ニヨンの屈辱」

 この話題は、日本サッカーの歴史において未だに論争のネタになっているのだが、日本代表を長年牽引してきたエース・三浦知良(以下カズ)が突然見切りをつけられたという衝撃といいますか、悲願のワールドカップ出場を果たしその夢舞台に立つ矢先のこともあってか、あっけなくカズのワールドカップは終わりを告げたのだった。
 そんなわけで今から22年前の今日1998年6月2日は、サッカー・ワールドカップフランス大会に出場するメンバー発表においてカズが落選した日です。これは当時直前合宿をしていたスイス・ニヨンでの出来事だから「ニヨンの屈辱」と呼んでいる。

 1998年のサッカー・ワールドカップフランス大会でワールドカップ初出場を果たした日本代表、その道程は平坦なものではなく、長年エースとして日本代表を引っ張ってきたカズにとっても試練続きで、フランス大会アジア最終予選の途中(最初は加茂周だった)で就任した岡田武史監督と諍いを起こし(「ジョホールバルの歓喜」で有名なアジア第3代表決定戦【イラン戦】で交代を命じられた際「俺?」とジェスチャーしたことで誤解を受けたが、またフリーキックは中田英寿か名波浩のどちらかが蹴ることという指示を無視して独断で蹴った)、関係がギクシャクしたのだった。
 また最終予選では当初城彰二と2トップを組んでいたものの、途中から呂比須ワグナーが加わり、終盤で中山雅史や岡野雅行が加わったことで競争が激しくなって代表におけるカズの立ち位置は危うくなったことも影響している。

 そしてスイスのニヨンで行われたフランス大会直前合宿メンバー入りしたカズだったが、本大会に出場するメンバー発表で岡田監督は「外れるのは市川(大祐)、カズ、三浦カズ、そして北沢(豪)の3選手です」と公表、カズを外すという岡田監督の決断は日本中に衝撃を与えたのだった。これについては長年エースとして牽引してきたカズを簡単に外すのかという疑問が出たが、本大会に出場するメンバー発表においていきなり外すメンバーを発表するのかという疑問もあった。後年岡田監督は「外れる3人を読み上げるのはではなく、代表メンバー22人を一人づつ発表すべきだった」と関係者に語ったのだが・・・。岡田監督にとってカズを外すことは苦渋の判断だったんじゃと思うね。

 メンバー入りから落選したカズは日本に帰国し、記者会見を開いて「日本代表としての誇り、魂みたいなものは向こうに置いてきた」と自身は代表からは落選したが、その誇りと魂を他の選手に与えたということか。
 エースであり象徴でもあったカズを外したことでサッカーファンのみならず世間の論争を招いたことは事実、初めてのワールドカップ本大会を前にこの決断は何を考えてんだという批判もあったが、いつまでもカズに頼るのもいかがなものか、城や中山、呂比須もいるんだからという前向きな意見もあった。

 蓋を開けてみれば、日本はアルゼンチン・クロアチア・ジャマイカとグループリーグで戦ったものの3戦全敗、1得点に終わり世界の壁を痛感する結果となったけど、カズを外したからこうなったんだという批判も起こった上に、カズを最終的に外した岡田監督にも批判の目が向けられたのだった。
 未だ現役でバリバリやっているカズ、だが現在に至るまで現役でプレーしている要因としてワールドカップ出場を土壇場で果たせなかったことがモチベーションとなっているのか、まだまだやれるという意気込みだけでプレーしていると思うね。ニヨンの屈辱は日本サッカーにおける論争の一つだが、カズにとって忘れることの出来ない屈辱として記憶に留めてるんでしょう。

theme : サッカー日本代表
genre : スポーツ

「生まれ変わっても力士になりたい」

 今や国際化している角界、一昔前まではハワイだけだったが、そのハワイはもとい外国人力士のパイオニアとして有名な高見山、彼の活躍があってこそ外国人力士が後年多く出てくるわけだが、日本で辛い修行と稽古に耐える生き様及び、独特の長いもみあげなど個性ある風貌で相撲ファン以外からも高い人気を博したのは言うまでもないです。
 そんなわけで今から36年前の今日1984年5月20日は、その高見山が現役引退した日です。

 高見山大五郎(本名ジェシー・クハウルハ)、1964年に当時の高砂親方にスカウトされて角界入りしたが、来日した日が2月だったことで常夏のハワイで育った彼にとっては初めての冬の寒さに「間違ってシベリアに来てしまった」とコメントしたのだった。
 晴れて新弟子となったものの、ちゃんこの味に慣れず当初はケチャップをかけて食べたり、股割りが上手く出来ず涙を流して「目から汗が出た」という名言を残したり、慣れない生活に四苦八苦したことは有名なエピソードとしてネタにもなっている。

 慣れない生活の中でも相撲に励み初土俵から3年経った1967年に十両に昇進、初の外国出身関取となると翌1968年には幕内昇進、破竹の勢いで翌年には小結にまで昇進するが浮き沈みの激しい成績により平幕と小結のエレベーター状態な上に、1971年に自身をスカウトした高砂親方が亡くなり意気消沈するも周囲の激励により現役を続行、それを乗り越えてから高見山の躍進が始まるのでした。
 1972年名古屋場所で13勝2敗の成績で初めて外国人力士として優勝を果たし、表彰式では当時のリチャード・ニクソンアメリカ大統領から祝電が読み上げられるという異例の出来事もあった。アメリカにすれば自国出身者が日本の国技である相撲で優勝したことは喜ばしいからでしょう。
 初優勝した翌場所には関脇に昇進するも5勝10敗と負け越して前頭筆頭に降格、その後も関脇・小結・前頭を往復するエレベーター状態が続く不安定ぶりだったが、当時人気を博していた大関・貴ノ花(後の二子山親方)との対決は弁慶と牛若丸の戦いに例えられるほど角界を沸かせたのは有名(中でも1980年9月場所で相まみえた時には土俵際で両者が投げ合った際に高見山の右手が先に落ちて貴ノ花に軍配が上がるも、物言いがついて貴ノ花の髷が先に早く土俵についたことから行司差し違えで高見山が勝利したというエピソードが有名、余談だが同年高見山は日本国籍を取得している)

 しかし1983年九州場所中に負傷し、左肘変形関節症と捻挫後遺症によりこれが響いて翌年の初場所で途中休場すると十両に陥落、長年ケガとは無縁だった高見山もここで一気に衰えが目立ったのだった。
「40歳まで相撲を取りたい」「(当時建設中の)両国国技館が出来るまでは現役を続けたい」という願いも虚しく、1984年5月20日、夏場所千秋楽をもって現役を引退、最後は満員の観衆から大声援を受け花道で花束を贈呈されたわけだが、初の外国出身関取最後の晴れ舞台としてこの上ないものでした。
「生まれ変わっても力士になりたい」というセリフを残し、高見山は土俵に別れを告げ、年寄「東関」を襲名して後に曙や高見盛などの力士を育てた親方として角界に多大な貢献をしたのは承知の事実。

 土俵の内外で活躍するなど角界に多大な功績も残した高見山(小錦も発掘している)、初の外国人力士として後世に名を残してますが、ハワイ出身の明るさと日本で身につけた辛抱強さも相まってることもあり、昔の外国人力士・ハワイ勢は明るさとハングリーが身についていたけど今の外国人力士、それもモンゴル勢はそれがないという批判も少なくない。

theme : 大相撲
genre : スポーツ

頭部への死球から大乱闘に発展

 今の時代プロ野球において無くなりつつある乱闘、これには女性や子供のファンが球場にもすすんで来るようになったことが影響しているけど、昭和から平成前半までは乱闘というものはつきものだったプロ野球、この乱闘は大荒れ度が高いものの一つとして有名です。またこの騒動がきっかけで新たなルールが出来たことでも有名。
 そんなわけで今から26年前の今日1994年5月11日は、神宮球場でのヤクルト対巨人戦で乱闘騒ぎが起こった日です。奇しくも当時巨人とヤクルトはギスギスした雰囲気が漂ってたからねェ・・・!! 

 1994年5月11日に神宮球場で行われたヤクルト対巨人戦、ヤクルトが西村龍次、巨人が木田優夫の先発で始まったこの試合は2回表にの西村が村田真一に頭部へのデッドボールを与えた。村田はグラウンドに倒れる。その後村田が起き上がり「何すんだ!! 危ねェじゃねェか!!」と怒りを顕にしたが頭部へのデッドボールの衝撃ですぐ倒れ、両軍ナインがベンチから出てくるも立ち尽くすだけだった。村田はすぐさま負傷退場となったけど、西村はこんな危ないボールを投げたのに続投となった。これに巨人の長嶋茂雄監督が「すぐに退場処分にすべきだった」と指摘している。
 村田へのデッドボールでギスギスした雰囲気となって始まったこの試合、3回裏に今度は木田がこの回打席に周ってきた西村に対して臀部へのデッドボール、明らかに村田へのデッドボールの報復と思われヤクルトの野村克也監督がベンチを飛び出して「危険球や」と指摘する。村田へのデッドボールでざわついた球場が再びざわついたが、ただならぬ雰囲気になったのは間違いない。両軍ナインのみならず観衆もそう感じていた。

 そして迎えた7回表、西村がこの年巨人に加入したダン・グラッデンに対し内角スレスレのボールを投じる、グラッデンは西村の投じたボールを倒れながらもかわす!! かわして起き上がったその時!! 激怒したグラッデンはマウンドへと詰め寄る!! そこにヤクルトのキャッチャー・中西親志が静止しようとするがその中西に対してグラッデンがマスクを振り落として殴打、中西が「何を!!」と応戦してグラッデンが中西にアッパーカット!! これが「号砲」となり両軍ナインがグラウンドへと飛び出して大乱闘に、グラウンドはまるで暴走族同士の抗争のような無法地帯になった。西村の頭部へのデッドボールが伏線となってここまでの乱闘になろうとは考えもしなかった。応戦した中西には過去にも乱闘騒ぎを起こしており、グラッデン相手に怯まなかったと言える。ちなみにこの試合でなぜ中西がマスクを被っていたかと言うと、この年レギュラーだった古田敦也がケガにより離脱していた為で。
 この乱闘騒ぎでグラッデン・中西が暴力行為で、西村がグラッデンへの内角球を危険球と見なされてそれぞれ退場となったが、1試合で3人も退場処分となるのは1980年7月5日の南海対阪急戦以来のことだった(この時は南海の広瀬叔功監督、新山隆史コーチ、片平晋作内野手が審判の判定を不服として審判を殴打して退場)。

 荒れに荒れたこの試合はヤクルトが5-1で勝利したものの、この乱闘騒ぎでグラッデンは右の指2本を骨折、中西は左眼球打撲と診断され負傷したけど、西村から頭部へのデッドボールを受けた村田は都内の病院でレントゲン検査を受けたけど脳及び骨に異常なしと判断されて事なきを得ている。
 それと今だったらこの試合は警告試合と見なされておかしくない。

 この乱闘騒ぎをセ・リーグは当然放っておくわけがなく、翌日グラッデン・西村・中西を呼び出して事情聴取して、グラッデンに対して出場停止12日間と10万円の制裁金、西村に対して出場停止5日間と10万円の制裁金、中西に対して戒告処分を下したが、あのような騒ぎを起こした以上処分が下るのは当然である。ただ西村に報復デッドボールを与えた木田にはお咎めはなかった。
 乱闘騒ぎで連盟から事情聴取を受けて罰則、乱闘騒ぎのツケは重かったけど、3選手に罰則を与えたのにヤクルト・巨人両軍に対してなぜペナルティを与えなかったかは疑問だが。それとこの試合は川島廣守セ・リーグ会長がたまたま見ていたんだから、3選手だけでなく両軍そのものに対しても罰を与えていいくらいだ。今だったら1000万円ぐらいの制裁金のみならず、両軍が共同で謝罪文を出すことを命じられるでしょう。
 この騒ぎの発端としては、昨年富山での試合で乱闘騒ぎを起こしたのをきっかけにギスギスした雰囲気となった両軍、村田へのデッドボールやグラッデンへの内角球について巨人からすればヤクルトはいつも自分たちに対してえげつない試合をしてくると見て、このデッドボールなどにも表れたと見て怒りがエスカレートしたと思うが。一方のヤクルトにすれば村田へのデッドボールは許されることじゃないと断罪し、ファンにこんなみっともない試合を見せたことへの懺悔の念も少なからずあった。ただ巨人に対しては一部から批判が起こってもおかしくないが。
「どこが『紳士たれ』だよ!? この暴力球団が!! 恥を知れ!!」「長嶋監督以下全てのプロ野球ファンに謝れ!!」って。
 この騒動が原因で頭部へのデッドボールは故意であろうとなかろうと危険球と見なして退場処分とするルールが出来たのはいうまでもない。

 当事者であるその3選手のその後についてだが、グラッデンはその後まずまずの成績を残したものの、この乱闘騒ぎが原因となったのかこの年のオフに退団、西村は前年まで先発ローテを守っていたもののこの騒動が原因でスランプに陥り翌年の開幕直前に近鉄・吉井理人との交換トレードでチームを去る羽目となり(近鉄でもスランプにより成績を残せず、その後ダイエーに移籍して初年度に10勝をマークしてカムバック賞を受賞している)、中西はその後一軍出場は数えるくらいになったんだから、暗転したと言っていいかも知れない。それだけこの乱闘騒ぎのツケはかくも重かった。巨人とヤクルトのギスギスした関係からこのような乱闘騒ぎとなったのって、長嶋監督と野村監督の対立も背景にあると思うね。

theme : プロ野球
genre : スポーツ

あっさり総辞職した最初の非自民党政権

 戦後日本の政治において自民党以外が政権の座に就いたのはたったの3回だが、その最初が1993年8月に発足した細川護熙内閣、戦後初の非自民党政権ということで注目を集めたが、蓋を開ければ失敗続きであっさり終焉したことで有名です。
 そんなわけで今から26年前の今日1994年4月25日は、細川護熙内閣が総辞職した日です。

 1993年7月18日に実施された第40回衆議院議員選挙で、自民党は選挙前に党のゴタゴタがあり単独過半数を取れず、また社会等も議席数を伸ばせず、一方で新生党・新党さきがけ・日本新党といった新たな党が議席を伸ばし「新党ブーム」を起こしたことから、今後の政権をどうするかにおいて、新生党が公明党などと連立政権を組むと言えば、日本新党と新党さきがけは統一会派を作って自民とそれ以外の党と政治改革を実現する連立交渉を行い、日本新党の細川護熙を総理とすることで最終的に合意したが、なぜ細川氏に白羽の矢が立ったのか? それは旧熊本藩主家である細川家の出自であり、近衛文麿の孫ということもだし、また理念や政治手法でバラバラな党や会派をまとめるには政界再編と新党運動のリーダーとしての立場から適任となったのです。

 同年8月5日、細川内閣が誕生、1955年以来政権与党だった自民党が初めて野党に下り初めての非自民党政権が誕生し、国民はこのときは大きな期待を抱いたのだった。
 まず細川政権は中選挙区制を廃止して小選挙区制に、政党助成金制度を導入するなど政治改革に着手したものの(政治改革四法)、国民福祉税構想の失敗、この年日本が例年にない凶作もあり米不足になったことから輸入合意決定もあり一部勢力から反旗を翻されたり、北朝鮮有事を巡って親北朝鮮の社会党の存在がアメリカから疑問の目を向けられるなど政治の迷走もあり、国民は細川内閣にそっぽを向くことになる。
 
 追い打ちをかけることとなった佐川急便グループからの借入金問題発覚、この問題で自民党から追及されマスコミからも追及されると1994年4月8日に細川は辞意を表明、4月25日に内閣総辞職という内閣発足から1年足らずであっけなく細川内閣は崩壊したのだった。
 初めての非自民党政権ということで国民から期待されたものの政権を上手くまとめることが出来ず迷走して、支持率が低下して最終的にあっけなく内閣総辞職となった細川内閣、やはり新党ブームで持ち上げられた一方で政権運営能力があるか疑問視されたかどうかは不明だが、小沢一郎曰く「素人」と評されたように、国政政党として機能していない未熟さも露呈したと思うね。万年野党だった社会党からして国政政党としてのけじめすらなかったから、新たな党には荷が重すぎたとも思う。

 後年の民主党政権にも当てはまるしくじりだが、期待した分外れが大きかったと思います。民主党については万年野党だったせいもあり政権運営能力が皆無だったことや、党内の派閥をまとめきれない組織力のなさも影響しているが。

theme : ヘタレの売国奴支配の日本
genre : 政治・経済

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