FC2ブログ

コソボ問題の発端

セルビアから分離独立して11年経ったコソボ、しかし今もセルビアは独立を認めず平行線の様相だけど、なぜセルビアはコソボにこだわるのか? 現在はアルバニアが多数派を占めるコソボではあれども、かつてセルビアはオスマン・トルコと戦争を展開し、ここが戦地となったことでセルビアにとってコソボは「魂の故郷」と呼ぶべき場所となり、分離独立に反対したのも無理はありませんでした。
その理由として当然歴史的な背景があるわけですが、セルビアがなぜコソボを自分たちの魂の故郷と呼ぶのか、それは今から630年前の1389年に起こったコソボの戦いにあります。
そんなわけで今から630年前の今日1389年6月15日は、コソボの戦いが起こった日です。

現在独立国となっているコソボ(とはいえそれを承認している国は全部ではない)、しかしセルビアにとっては歴史的に特別な場所として独立を認めておらず(イスラエル建国を認めないアラブと同じか)、対立したまま現在に至るけど、こうなった背景には様々な民族が入り混じるバルカン半島の歴史も含まれています。
南スラブ系民族がバルカン半島に移住したのが7世紀、9世紀に入ると東ローマ帝国の影響もあってギリシャ正教を受け入れて、その後東ローマ帝国が没落するとそれに乗じて12世紀にセルビア侯ステファン・ネマニャがコソボを中心地としてセルビア諸侯国を統一、ネマニャはセルビア王となってセルビア王国を建国して、バルカン半島における覇権を握ったのです。
この時からセルビアにとってコソボは「セルビア建国の地」として「魂の故郷」と呼ぶようになったきっかけかも知れないが、ユダヤ人が第2次大戦後パレスチナにイスラエルを建国したのも、かつてここがユダヤ人の王国だったからという理由で建国したのと同じである。

ネマニャが建国したセルビア王国は当初内紛もあり混乱するけどその後情勢は安定して、東の隣国・ブルガリアと戦争して領土を拡大、東ローマ帝国の没落に乗じて東ローマ帝国遠征に乗り出した者いたが失敗、今度は当時台頭してきたオスマン・トルコがバルカン半島に侵攻、これに危機感を覚えたセルビア侯ラザル・フレベリャノビッチは近隣のボスニアやワラキア(現在のルーマニア南部)などと連合を組み、そして1389年6月15日、コソボでセルビア・ボスニア・ワラキア連合軍とオスマン・トルコと戦ったものの、オスマン・トルコに敗北、これに伴いバルカン半島はオスマン・トルコの支配下に置かれるわけだが、オスマン・トルコの支配下に置かれることを嫌ったセルビアはオスマン・トルコの皇帝ムラト1世を殺害、オスマン・トルコはその報復として捕虜としたフレベリャノビッチを殺害したのだった。その後フレベリャノビッチの息子は大人しくオスマン・トルコに従属することで事態は収束した。

19世紀までセルビアはオスマン・トルコ支配下に置かれるものの(「大セルビア主義」なるナショナリズムが台頭、1830年にギリシャがオスマン・トルコから独立を勝ち取ったことがバルカン諸国に影響を及ぼした)この戦争での敗北はセルビア人のアイデンティティというかプライドに影響するようになったのです。自分たちの聖地をオスマン・トルコに奪われたことは歴史的に屈辱な出来事なんでしょうね。この戦いでコソボを追われて北上する羽目となり、代わってアルバニア人が移住することとなって、後年のコソボ紛争につながるのだった。この構図はユダヤ人が追われてその後アラブ人が移住したエルサレムと被るが。

聖地を巡る対立とその延長で起こった紛争、コソボの戦いは今もくすぶるコソボ問題の原因として歴史に名を残してますが、コソボ問題もまたバルカン半島=複雑怪奇な民族・宗教が入り混じり、度々戦争を繰り返す世界の火薬庫。という印象を残してますが、コソボはセルビアにとっては自分たちの聖地、アルバニア人にとっては自分たちの影響下に置くべき特別な場所として一歩も引かないけど、これも歴史を知れば分かります。地政学的に見てランド・パワー国家が近く(東方のオスマン・トルコだけでなく西方からはオーストリア・ハンガリー帝国、現在はロシアか)、歴史において度々それらからの侵略や干渉を受けてきたバルカン諸国だが、干渉されやすい半島国家の様相も呈してます。

theme : 歴史
genre : 学問・文化・芸術

神宮で2度も乱闘

先月8日に神宮球場で行われたヤクルト阪神の試合で、6回裏2アウトまで無失点好投を続けていた阪神先発・岩田稔がヤクルトの青木宣親に頭部への死球を与えてしまい、これに激怒した青木が岩田を睨みつけて両軍ナインがベンチから一斉に飛び出すというあわや乱闘寸前の事態に発展したシーンは記憶に新しいが、この両者には昨年8月に岩田が青木に危険球を投じて青木がその後脳震盪を起こして登録抹消という事態となり、少なからず因縁があったのだった。
神宮でのヤクルト戦でここまで殺気立った雰囲気となったケースは過去にもあった。中でも今から30年前の1989年5月31日、神宮で行われたヤクルト戦でのエピソードは最も有名です。

1989年5月31日、この試合では当時低調だった投手陣がピリッとせず打線が9点取りながら11四死球を与えたことで13失点を喫して負けたのだが、6回裏に2つのデッドボールを与えてこれが乱闘につながったのだった。

6回裏ヤクルトの攻撃で打席に立ったのはこの年ホームラン王となったラリー・パリッシュ(ワニを食べることで注目も集めた)、阪神のマウンドに立ったのはこの年ドラフト5位入団のルーキー・渡辺伸彦、その渡辺が2ストライク1ボールで投じた4球目、何とパリッシュの左腕上腕に当たってデッドボール、これに怒ったパリッシュ、マウンドめがけて突進しようとしたが阪神のキャッチャー・岩田徹がパリッシュを押さえ込むものの、その岩田にチョップを喰らわして激しい口調でまくしたてると、両軍ベンチから選手たちがマウンドに集まって乱闘に、阪神ナインは怒り心頭のパリッシュを制止したものの、それでも渡辺を見つけようと突き進む!! この時決死で止めていたのは前年途中に西武から加入した金森栄治だったが。
3分後パリッシュは暴力行為で退場となるが、その6分後、ヤクルトの中西親志にビーンボールを投じたのだからパリッシュの件が覚めやらぬ中再びヤクルトナインが激怒、鬼の形相で渡辺めがけて突進する中西、ヤバイ! と思って逃げる渡辺、マウンドから外野方向に逃げ出しそれをヤクルトの小谷正勝コーチが追いかけるという異様な光景となり、マウンド付近では両軍ナインが再び乱闘を演じたのだが、1イニングに2回も乱闘、今となっては考えられないものである。パリッシュは退場になったがなぜ中西は退場にならなかったんだろうね。
渡辺はこの年導入された危険球での退場処分を受けたが、当の渡辺は「ストレートがすっぽ抜けただけ」とわざと投げたことを否定したけど、2度も乱闘騒ぎになるとはと思わなかったんじゃ・・・!? 阪神ではあまり印象には残っていないが(後年オリックスに移籍して中継ぎの一角として活躍した)、1試合に2度も乱闘を起こしたって印象です。

そのパリッシュは翌年阪神に移籍し、その渡辺と和解するわけだが、何とも奇妙な縁である。

theme : 阪神タイガース
genre : スポーツ

貴乃花、最後の優勝

平成の大横綱として有名な貴乃花、引退後は一代年寄になって親方になるも、日本相撲協会と対立して騒動となり、弟子(貴ノ岩)が暴行事件の被害者になった際に協会と揉めて理事の座から解任されたり、別の弟子(貴公俊)が暴行事件を起こして平年寄に降格、相撲協会退職、離婚、絵本作家になったりと事欠かないけど、その貴乃花を語る上で欠かせない一つが、2001年の大相撲夏場所で優勝したシーンではないでしょうか?
そんなわけで今から18年前の今日2001年5月27日は、貴乃花が22回目の幕内優勝を果たした日です。

平成の大横綱・貴乃花、1994年に横綱に昇進してからは前半こそ優勝を重ねたりと横綱として相応しい成績を残したが、1996年頃からケガもあり休場も目立つようになり、1998年には洗脳騒動でワイドショーを騒がせ、これに伴い成績も低下するなど、良くも悪くも注目されたけど、迎えた2001年は初場所で14場所ぶりの優勝を果たし復活をアピール、そして迎えた夏場所では13日目まで全勝とこのまま優勝間違いないと思いきや、迎えた14日目に武双山戦で巻き落としにあい全勝ストップ、それに加えて右膝の半月板を損傷と出場が危ぶまれる事態が起こるけど、迎えた5月27日の千秋楽、同じ横綱・武蔵丸と対戦するけど、半月板損傷の影響から力が入らず突き落としで敗れ、この時点で武蔵丸に13勝2敗で並ばれて優勝決定戦に持ち込まれるわけだが、本割で右膝を引きずる仕草を見せたからか審判部から強行出場を止められたくらいダメージは大きく、誰しもが武蔵丸の逆転優勝かと思ったのだが・・・!?
「さすがの貴乃花もダメだろう」「今は武蔵丸に分がある」と。

迎えた決定戦で武蔵丸を豪快な上手投げで下し、まさかの優勝を果たすという奇跡を起こしたのです!!
相当な重傷を負いながらそれを押しての出場、無謀だと誰しもが思ったが貴乃花にとって優勝がかかった状況で休む訳にはいかないという意地とプライドがそうさせたと思うけど、勝った時に見せた鬼の形相がまさに印象的でした。
千秋楽だった為表彰式に出席した小泉純一郎総理(当時)が表彰式で「痛みに耐えてよく頑張った! 感動した! おめでとう!」って感極まった口調で絶賛したように、相撲ファンはイザ知らず世論を大きく感動させた一番となったのは間違いないです。半月板損傷という重傷を押して強行出場、そして優勝という劇的なシナリオはある意味感動的、2004年に阪神の金本知憲が左手首にデッドボールを受けて軟骨損傷のケガを負い、試合出場が危ぶまれる事態になりながらも、翌日の試合に出場して右手だけでスイングしてヒットしたシーンと並ぶ劇的なシーンではないでしょうか?

ただこの決定戦で劇的な優勝をつかんだ代償は大きく、次の名古屋場所から7場所連続全休という結果となり(その間フランスで右膝半月板の手術を受けた)、1年以上全休したことで横綱審議委員会から苦言を呈されるほどにも至ったのです(「ケガを直してゆっくり休めばいい」から「横綱がこんなに休むのはいかがなものか」に変わったくらい)。
重傷を押して出場して優勝を掴む、その代償はあまりにも大きいけども、後年稀勢の里もそれをやって早すぎる引退を招いたのは何とも皮肉だ。横綱のプライドは時に諸刃の剣になりかねないってことです。横綱のプライドから途中で休むのは許されない、そんな気持ちがもたらした貴乃花の22回目の幕内優勝でした。

theme : 大相撲
genre : スポーツ

シューマン宣言

この宣言は後のEU(ヨーロッパ連合)につながることになり、ヨーロッパ統合の礎っていうか長年対立してきたフランスドイツ(当時は西ドイツ)の和解及び協調にもつながったことでつとに有名です。その名はシューマン宣言、当時のフランスの外相、ロベール・シューマンが提唱したことでその名がついています。
そんなわけで今から69年前の今日1950年5月9日は、シューマン宣言が発布された日です。

第2次大戦後、これまで対立してきたフランスとドイツの和解と協調を呼びかけたシューマン、なぜシューマンはドイツを赦そうとしたかと言えば、幼少期は度々フランスとドイツの対立の場となってきたルクセンブルク近くのロレーヌで過ごし、当初はドイツ国籍だったものの第1次大戦でアルザス=ロレーヌがフランスに帰属されるとフランス国籍を得るなど、波乱万丈といっていい生い立ちでした。後にシューマンは大学教育をドイツで受けており、アルザスのストラスブール大学にも進んで学位を取得している。ドイツの大学で学んだせいか、ドイツ語訛りのフランス語を話すようになっているが、これが後に大きく生きる。
その為かフランスとドイツに精通したことで、政界に進出していた第2次大戦直前の時期にはフランスとドイツの和解を呼びかけたこともあった。

戦後に財務大臣となり、後に外務相に起用されたシューマン、ドイツに理解もあるシューマンの起用はフランスとドイツの和解を象徴するシーンとなり、また1949年に訪米した際にはアメリカのディーン・アチソン国務長官(冷戦初期のアメリカ外交政策を作った)に対して西ドイツの政治的転換を呼びかけるなど、フランスとドイツの和解は着々と進んだけども・・・。
当時フランスの実業家であり政治家でもあったジャン・モネは、ドイツの石炭・鉄鋼業の中心だったルール及びザール地方の支配権をフランスに与えて、フランスの工業生産を向上させようと提案し、ドイツの工業資源をヨーロッパの復興に当てようとする狙いがあったのです。

その状況で浮かび上がった西欧の鉄鋼業共同化構想、シューマンはそれならいい、フランスとドイツはこれから協調路線を取り、資源を共有すればもうあんな悲惨な戦争に発展することはないとして、モネからシューマン宣言なる原文を与えられ、1950年5月9日にシューマン宣言なるものを発表したのです。

これまでドイツとフランスが戦争を起こした要因として石炭など資源だったことから、その資源をお互いに共有することで対立しなくなるというモネの主張をシューマンが汲んだと思うね。フランスと西ドイツだけでなく、ベネルクス三国もこの動きに同調して1951年にヨーロッパ諸共同体の中の最初の共同体となり、後のEUにつながるECSC(ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体)の創設につながるなど、シューマン宣言が「一つのヨーロッパ」の曙となったのは間違いないです。

敵対から和解という大人な関係に変わったフランスとドイツ、不毛な対立を乗り越えて協調路線に舵を切ったこの両国の関係は良く「隣国同士は実は仲が悪い」というイメージを払拭するものかも知れませんが、フランスやドイツは大人だからいいけど、日本の隣国は身勝手でどうしようもないクソガキだから、困ったもんです。これには中韓が未だ国家として「大人」になりきれないきらいが強いけど。

theme : 歴史
genre : 学問・文化・芸術

アムリットサルの虐殺

この出来事は植民地支配下における抑圧的な政策に対する非武装の抗議運動に対して、宗主国側が何と発砲に及んで多くの犠牲者を出すという最悪レベルのことだが、この事件をきっかけに独立運動がよけい活発化するのだから、植民地政策に対する批判を強めたのは言うまでもありません。
この出来事の名前はアムリットサルの虐殺(事件とも呼ぶが)で、インドの独立運動というか反英闘争を語る上で欠かせないものです。舞台は現在のパキスタンとの国境に近いパンジャブ州にあるアムリットサルという町です。ここでこの事件が起こったことからこう呼ばれてます。
そんなわけで今から100年前の今日1919年4月13日は、アムリットサルの虐殺が起こった日です。

19世紀半ばにイギリスの植民地となったインド、イギリス政府による直接統治の上に総督を置くなどインドを植民地支配していたけど、ヒンズー教徒とイスラム教徒の対立を利用して一枚岩にさせないなど狡猾な姿勢を取っていたのだった。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、イギリスはインドに対し「協力すれば自治を認める」と約束し、これを真に受けたインドはイギリス軍に多くの若者を派兵したのだが、戦後イギリスは「そんなもん知らない」なんてしらを切り、1919年にはローラット法なる法律を作り(逮捕状なしで逮捕、裁判なしで投獄を容認)、インドに対して抑圧的な姿勢を取ったのでした。

当然約束を反故にされたインドはイギリスへの怒りを爆発、同年4月にパンジャブ州(アムリットサルも含め)全土で大規模な反英闘争を展開し、そして4月13日に反英闘争を指揮した2人の指導者が逮捕されたことを受けてそれに抗議する集会をアムリットサルで行い、女性や子供まで参加するものとなったのです。
そこにイギリス軍(正確にはイギリス領インド帝国軍)が阻止しようと立ちはだかったが、群衆は武器を持たない無抵抗状態だったものの、イギリス軍は群衆に対して無差別発砲を行い、1500人以上の死傷者を出すという植民地政策下では最悪レベルの殺傷事件というか弾圧となった。
この事件を受けインド全土で戒厳令が敷かれたが、無抵抗の市民に対して無差別発砲という過激な手段に打って出たイギリスへの反発の火に油を注ぐこととなり、おりしもこの事件の7日前に始まっていたあのマハトマ・ガンジーが主導するサティヤーグラハ(非暴力・不服従)運動はこの事件で大きく発展するようになったのだから、反英感情というか反英闘争がエスカレートするのは時間の問題だった。

ただこの事件はイギリス国内でも問題視され、発砲を指示した軍の責任者は罷免に追い込まれたけど、当時のインド総督などは責任を問われず、無罪放免という結果となったが、当時は白人優越主義だったことで、有色人種をいくら殺害しようがお咎めなしという理不尽かつ不条理なものだった。

インドの独立運動をさらに高め、反英感情をも高めることとなったアムリットサルの虐殺、事件発生から94年後の2013年に当時のイギリス首相だったデイビッド・キャメロンはイギリス首相として初めて事件現場を訪れ「イギリスの歴史において恥ずべき事件」と遺憾の意を表明したものの謝罪には至りませんでした。
これについてインド国内では反発の声が挙がったのは言うまでもないが、おそらくイギリス国内において「そんな大昔のことを今になって謝罪するのはバカバカしい」って批判が起こるからやらなかったかも知れないけど(もしこの虐殺について謝罪すればインドから植民地支配そのものに対する謝罪要求が来るからか?)、未だにイギリスにおいてインドを植民地支配したことは正しかったとの認識が強く、いくらインドに抑圧的な政策を施行して多くのインド人を犠牲にしようが残酷ではなかったってことでしょう。インドもインドでイギリスによる植民地政策は苦痛の歴史でしかないが、ガンジー主導のサティヤーグラハ運動はインドのナショナリズム高揚の象徴だし(賛否は割れているが)、インドの近代化に貢献した部分もあり、複雑な心境だと思います。
この出来事についてイギリスは「事件」と呼んでいるが、インドにすれば「事件? 違う! これは大量虐殺だ!」って反論しそうだけど、両国において歴史認識問題に発展した話は聞いたことがないです。日本と特定アジアとは違ってイギリスとインドでは歴史認識問題があまりないってこと?

あれから100年という節目の年となる今年、この日にインド全土で反英デモや集会に発展してもおかしくない気がするけども、事件の犠牲者を追悼する式典はやりそうだが、現在のナレンドラ・モディ首相が式典でイギリスを非難して謝罪要求するような姿勢を取らなければいいけど。インドは韓国とは違って「恨」の精神はない為、それが起こる懸念はないでしょうね。
アムリットサル事件という表現もあるが、どちらかと言えば軍をけしかけて大量の犠牲者を出したから虐殺という表現が正しいでしょう。

theme : 歴史
genre : 政治・経済

歓喜の東邦、初優勝を逃した上宮

今年の選抜高校野球、いやさ平成最後の選抜を制したのは愛知の東邦高校だが、その東邦と言えば平成最初の選抜で優勝したことから、今年の選抜で優勝したことで「平成最初及び平成最後の選抜を制した」イメージがあるけど、平成最初の選抜で優勝した時はまさに奇跡のドラマと言って過言ではありません。
今から30年前の今日1989年4月5日は阪神甲子園球場で第61回選抜高校野球大会決勝戦、東邦が劇的なサヨナラ勝ちでこの年の選抜高校野球で優勝した日です(ちなみにこの優勝は4回目)。

今から30年前の1989年に行われた第61回選抜高校野球大会、決勝は東邦と大阪代表の上宮高校の顔合わせとなりました。東邦はエースの山田喜久夫(後に中日)を中心に前年準優勝だったメンバーが主力で、一方の上宮は元木大介(後に巨人)・種田仁(後に中日など)などを擁し、戦前から下馬評が高いチーム同士の対決となり、注目されました。
試合は東邦・山田と上宮・宮田正直(後にダイエー)の両エースが好投し4回まで無得点だったものの、5回に入り両校が1点を入れて一歩も引かない状況となったけど、7回辺りから一投一打にスタンドが沸くという展開で、まさに名勝負と言えます。

1-1の同点のまま9回も決着がつかず試合は延長に突入、延長10回表に上宮が2アウト1塁から元木がヒットでつないで1、2塁のチャンスを作ると、続くバッターがサード強襲のヒットで1点を勝ち越し、試合は土壇場で上宮がリード、その裏上宮の宮田は東邦の先頭打者にデッドボールを与えて出塁を許すも続くバッターを併殺打、誰しもが上宮の優勝を期待したものの、ドラマはそこからでした!!
上宮は初優勝のプレッシャーから宮田が続くバッターにストレートのフォアボールと内野安打で1、2塁のピンチ、東邦は土壇場でチャンスを作ると、後続のバッターがつまりながらもセンター前ヒットを放つと、2塁ランナーがホームインして東邦が土壇場で同点に追いつくのだが、直後に1塁ランナーが2塁をオーバーしたのか上宮がその隙を見てセンターからのバックホームを受けたキャッチャーがサードを守っていた種田に返球、ランナーを2、3塁間に挟んでアウトを狙うも、種田からの送球を何と上宮のセカンドがそれを捕球できず、さらにカバーに入っていたライトがこれを後逸!! ボールは無情にも誰もいない外野方向へと転がり、この思いがけないエラーの間に2塁ランナーはホームイン!! 3-2と奇跡の逆転サヨナラ勝ちで東邦が4度目のセンバツ優勝を成し遂げたのでした!!

崖っぷちからチャンスを作り、そこから奇跡の逆転勝ちというドラマを演じた東邦、一方初優勝まで後1人のところでまさかの守備が崩れて逆転負けという上宮、この時NHKのアナウンサーだった西田善夫氏は「勝って泣き、負けて泣く選抜の決勝! サヨナラの幕切れでした!」と声高に実況、東邦の校歌斉唱が終わった後に「本当に野球は何があるか分からない」と続けており、劇的な結末にコメントが困ったとも思います。

東邦にとっては劇的な4度目の優勝だが、一方の上宮には守乱でまさかのサヨナラ負けで初優勝を逃すという残酷な結末、後者については「逃げていった初優勝」と後年の選抜高校野球において試合と試合の間に選抜名場面・名勝負で放送される際このようなタイトルで発信されている。

野球は筋書きのないドラマとよく言うけど、この試合もまたそれが当てはまるものだと思います。あれから30年後に優勝した東邦、運命的なものを感じます。一方の上宮はそれから4年後の選抜で悲願の優勝を果たすのだが。この試合は東邦の劇的なサヨナラ優勝と悲劇のヒーローとなった元木というか上宮。と評していいのでしょうか? またこの試合で戦った東邦の山田と上宮の種田はこの年のドラフトで中日に指名されてチームメイトとなったことは奇遇です。

theme : 高校野球
genre : スポーツ

プロフィール

アジシオ次郎

Author:アジシオ次郎
FC2ブログへようこそ!

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
最新コメント
最新トラックバック
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード