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「連帯」誕生のきっかけ

東欧革命から30年を迎える今年、民主化運動につながるきっかけの一つとしてポーランド「連帯」なる組織が発足されたことにあるけど、共産主義下だったポーランドにおいて自由な組合活動が認められなかった中、政府による弾圧を乗り越えて合法組織となったことからポーランドにおける民主化運動は進んだのです。
そんなわけで今から39年前の今日1980年8月14日は、ポーランドのグダニスク造船所でレフ・ワレサ率いる労働者がストライキを起こした日です。これは「連帯」発足につながる重大な出来事です。

第2次大戦後、ソ連によって共産主義体制となったポーランド、当初はスターリン主義的な政策を取ったものの(初代第一書記ボレスワフ・ビェルト)、スターリン批判を境にポーランド国内で労働者の抗議が頻発、時同じくして共産党第一書記に就任したヴワディスワフ・ゴムウカはビェルトのやり方とは違って自由化を進めたものの、保守的な政策に転じた上に1968年に隣国・チェコスロバキアで起こったプラハの春でソ連と共謀したことで国民の支持を失い、また賃金問題や食糧不足問題、労働者のストライキや暴動で経済が冷え込んだことからゴムウカは失脚、その後アメリカや西ドイツから借金をしてまで経済を立て直したもののすぐにインフレを起こして経済はまた冷え込み、共産党政権は余計国民からの厳しい批判にさらされるのでした。

そんな中グダニスクにあるレーニン造船所(グダニスク造船所)の技師だったレフ・ワレサが独立した労働組合を作るべきだと訴え、1980年8月14日、ワレサ率いる労働者たちはグダニスクにあるレーニン造船所でストライキを起こし、組合の自由と言論の自由を訴えたのです。同年9月17日にグダニスクで自由労働組合の全国代表者会議を開き「連帯」が発足しました。

しかし共産党政権にとって政府批判を掲げる組織の存在は好ましいものではなく、直ちに戒厳令を強いて「連帯」を非合法化してワレサなどを逮捕、抑圧的な政策に走るのだったが、当時ローマ法王でポーランド出身のヨハネ・パウロ2世が母国ポーランドを訪問したことで活動は活発化するのでした。
ワレサらの行動に加えてヨハネ・パウロ2世が訪問したことに刺激を受けたポーランド国民にとって、これは民主化に大きく動くきっかけだったと言えます。その始まりの場所であるグダニスク造船所は現在ありませんが、ポーランドの歴史において無くてはならない1ページとしていいでしょう。またヨハネ・パウロ2世訪問で当時共産党政権から抑圧されていたカトリック教会にとっても自信をつけることにもなった。
造船所のストライキから始まった民主化運動、これにはポーランドが嫌々共産主義にされたストレスが一気に爆発するきっかけを作ったと思うと、始まりは労働者の抗議って取れます。共産党政権が崩壊する発端として。

theme : 歴史
genre : 学問・文化・芸術

イラク、クウェートに侵攻して併合

現在国際社会において緊張状態にある地域といえばホルムズ海峡、イランと欧米の対立の場となっていることもそうだが、地理的に見て中東から石油を輸出する際に避けては通れない場所だけに石油を当然中東からの輸入に依存している日本としてはホルムズ海峡危機を対岸の火事とは見なせません。アメリカから有志連合に参加するよう言われているものの・・・。
そんな中かつて中東において国際社会を巻き込んだ危機を知っているだろうか、それは東西冷戦が終わって間もない時期で、アメリカにとっては同時期においてイランと並んで中東における危険分子を作ったきっかけなことでも有名です。当事国はもちろんイラク。
そんなわけで今から29年前の今日1990年8月8日は、イラクがクウェートを併合、湾岸危機の火に油を注いだ日です。

1990年8月2日、突如としてクウェートに軍事侵攻してその6日後の8月8日にクウェートを併合したイラクのサダム・フセイン大統領、なぜイラクはクウェート侵攻及び併合という国際法違反に及んだのか、それにはイラクのクウェートに対する嫉妬にあります。
クウェート侵攻及び併合の2年前、イラクは1980年から続いたイラン・イラク戦争が終結したものの、長年の戦争でアメリカからの債務が膨れ上がり(この戦争でアメリカはイラクを支援した、イランという共通の敵がいたこともあり「敵の敵は味方」の論理に基づく)、また外貨を得る手段が石油の輸出だけだったからか、当時の原油価格が安かったこともありイラク経済は疲弊したのだった。
アメリカからの債務を返せないことで、アメリカはイラクに対して農作物の輸出を制限するという見返りを与え、それに加えて工業部品も輸出制限するなど、イラク経済は余計困窮したのだった。アメリカから借金しといて返せないんじゃアメリカだって怒るよ。

当時の原油価格が1バレル15~16ドルだったことで、イラクとしてはこんな安値は認めない! としてOPEC(石油輸出国機構)に1バレル25ドルまでに上げてくれと訴えたもののOPECはこれを拒否、他方でサウジアラビアやUAE(アラブ首長国連邦)、そしてクウェートがOPECの割当量を超える石油を増産したことから、原油価格は著しく値下がりして石油価格の高騰をもたらし、これがイラクに打撃を与えたのだった。イラクとしては我々の訴えを無視したばかりか他国の割当量を無視したことは許せない! とOPECよりも周辺湾岸諸国に敵意を向けたのだった。
サウジアラビアやUAEはイラクからの非難を受け石油増産を停止したが、クウェートは「俺たちには関係ない」とどこ吹く風で石油増産を止めず、またイラクとクウェートにまたがるルマイラ油田からクウェートが石油を掘っているとして「クウェートは我々の経済を主権を侵害している!!」と思い込み、イラクのクウェートに対する嫉妬と怒りは強まるのだった。ルマイラ油田の主権と利益を巡る争いもまた拍車をかけた。
イランとイラクの間に位置する小国であるクウェート、イラクにとって最も石油が出る地域に別の国があることは「目の上のたんこぶ」でしかなく、同じアラブなのにアメリカやイギリスに媚びて許せないと思ったし、イランと戦争している中で勝手に石油価格を釣り上げて儲けていることもまたイラクの反クウェート感情を煽ったかも知れない。
周辺湾岸諸国はイラクに対して自制を呼びかけるも、フセイン政権は聞く耳すら持たなかった。今の北朝鮮と似ているわ。

クウェートに対する怒りがエスカレートしたのか、1990年8月2日、イラク軍は突如としてクウェートに侵攻、まさか軍事侵攻なんて国際法違反はやらないだろうとたかを括っていたクウェートにとっては寝耳に水で、反撃の糸口すらつかめずあっさりイラクに敗れ、8月8日にイラクはクウェート併合を一方的に決定したのです。

イラン・イラク戦争で国内経済が疲弊、頼りにしていた石油も原油価格安でダメージを受け、借金だけが膨らんでどうしようもなくなったフセイン政権、当然自分への不満が出てくることを懸念してかそれをかわす為に周辺湾岸諸国を敵視する政策に走り、クウェートにその矛先を向けてルマイラ油田の利権を巡って衝突、またイラン・イラク戦争でイラクはクウェートに借金しており、その返済がままならず逆にクウェートから援助を要求されるというタカリに遭い、イラクとクウェートの対立は決定的となり、周辺湾岸諸国が仲介に出るもフセイン政権は「クウェート許すまじ」の態度を変えず、結果としてクウェート侵攻及び併合という事態をもたらしたが、イラクは国際社会から激しいブーイングを浴び、特にアメリカがこれに反発して湾岸戦争へのフラグとなったのは間違いないです。それはまたイラクとアメリカの対立の始まりをも告げたのだった。

他国の主権を侵害するという国際法違反をしでかしたイラク、国際法違反だという反発についてフセイン政権は「我々によるクウェート併合が国際法違反だと!? イスラエルによるパレスチナ侵略と併合こそ国際法違反だ!」「そもそもイギリスが勝手に作った国境なのに主権侵害なんて言いがかりだ!」と逆ギレする始末、国際法違反しておいて逆ギレとは今の韓国に通ずる部分がある。当時のフセイン政権と今の韓国は周りの反応など全く見てないんだな。
勝手に作った国境って点ではアフリカにも通ずるが、ヨーロッパ列強によって作られた国境の問題がもたらしたとも思います。これも植民地政策の負の遺産だが、植民地政策の歴史を持ち出して非難したフセイン政権、自分は悪くない、この問題の発端を作ったイギリスが悪いって理屈か? 確かに植民地政策によって作られた国境が後に問題となっているけど、植民地支配された歴史を持ち出して責任転嫁、丸っきし韓国と同じじゃないのかねェ、この当時のフセイン政権を見ていると。イギリスについてはパレスチナ問題に続いて後々中東に禍根をもたらすきっかけを作ったことは確かだ。

イラン・イラク戦争で相当な軍事費を使い、原油価格安と隣国・クウェートがイラン・イラク戦争のゴタゴタにつけ込んで石油収入を稼いだことからイラク経済は疲弊、経済回復につながる対策を取らずにクウェートを敵視する姿勢を取ったフセイン政権、結局フセインはこれといった対策を取らず、それでイラク国民から非難されるのが嫌で他国に矛先を向けて批判をかわすことで政権を維持しようとしたのって、何かあればすぐに反日に走る韓国政府と全く変わってないし、フォークランド紛争を引き起こした当時のアルゼンチン政府(軍事政権、当時アルゼンチン国内では軍事政権に対する不満が高まっており、それをかわすためにフォークランド問題を利用した)とも同類。これらは結局自分の保身しか考えてないってことだ。フセインしかりムン・ジェインしかりと。

theme : 戦争にひた走る国
genre : 政治・経済

「山が動いた」

一昨日行われた参議院選挙は自民・公明の圧勝で終わったけど、投票率がたったの48.80パーセントと戦後2番目に低かったことは極めて深刻だし、令和となって最初の国政選挙がこんな結果ではこれからの日本にとって懸念材料でもあります。
さて令和となって最初の国政選挙は参議院選挙だったけど、その前の平成になって最初に行われた国政選挙もまた参議院選挙なのを知っているでしょうか? この選挙は自民党にとって苦い記憶に一つでもあります。
そんなわけで今から30年前の今日1989年7月23日は、第15回参議院選挙の投開票が行われた日です。

今から30年前の1989年、元号が昭和から平成に変わったことから政治の世界においても変革の芽が出つつあります。
戦後ずっと政権与党だった自民党に対して、万年野党の社会党(当時)は政権の座に就こうと意気込んでたことは間違いない。
当時は竹下登前内閣下でのリクルート問題や消費税導入により国民から厳しい視線を浴びていた国会、竹下の後に総理に就任した宇野宗佑は国会の信頼回復をもくろんでいた矢先に直後に女性スキャンダルが発覚して、国会不信の火に油を注ぐ事態となったのだから、宇野内閣は就任直後から躓いたのです。

リクルート問題や消費税、宇野総理の女性スキャンダル、アメリカからの圧力による牛肉やオレンジの輸入自由化問題など、課題山積みの中で同年7月23日に第15回参議院選挙が行われたのだが、蓋を開けると自民党は前述のこの問題が響いて大敗(絶対的な強さを誇っていた1人区ではたったの3議席しか獲得出来ず)、逆に社会党は土井たか子委員長の「マドンナ旋風」ブームにより支持を集め、46議席を獲得するという参議院において与野党の議席数を逆転するという社会党にとって大勝利を挙げ、土井が「山が動いた」と言うくらいの衝撃でした。
そりゃ長年衆参共に自民党が第一党だった構図をこうも大きく変えたんだから、土井がこう評するのも無理はないが、リクルート問題や消費税、宇野総理の女性スキャンダルで自民党が支持を低下させ、それが社会党支持に回ったってことか。まァ自民党のしくじりが社会党が参議院で第一党になった理由だけど。
これにより自民党は参議院において27年もの間単独過半数を回復できず、公明党と連立を組むことで過半数を確保することになるのだが・・・。

社会党の勝利で終わった平成初の国政選挙である第15回参議院選挙だが、この選挙ではマドンナ旋風だけでなくスポーツ平和党なる政党を立ち上げたプロレスラー・アントニオ猪木が出馬して何と当選するという話題もあった(選挙期間中のキャッチコピーは「国会に卍固め」「消費税に延髄斬り」というリクルート問題や消費税導入により厳しい目を向けられた国会に対する皮肉なものだったが)。ただ知名度の高さから「猪木」という無効票も大量に出たけどね。ちなみに本名である「猪木寛至」名義で活動した(リングネームや芸名での政治活動が当時は認められていなかった為)。
とはいえ政治不信が漂った当時、人気プロレスラーだった猪木が出馬したことは賛否両論あったとは思うが。それとも猪木が自分が国政選挙に出馬することで政治不信を払拭させたい狙いもあったのでは。

この参議院選挙で大敗した自民党、宇野総理は投票日の翌日に内閣総辞職を表明、総理としての在職期間はたったの68日という過去最低の数字で(後に羽田孜が更新)、前内閣の残した課題を払拭する為に総理になってクリーンな政治を掲げながら直後に自身の不祥事とそれが響いて選挙で大敗してあっさり辞任とは、何ともあっけない。平成最初の総理はあっけなく表舞台から消えました、自身のスキャンダルとそれに伴う選挙での大敗で。

theme : 参議院選挙
genre : 政治・経済

マラカナンの悲劇

ブラジル・サッカー史上最も忘れることの出来ない出来事と言えば5年前の自国開催だったワールドカップでの「ミネイロンの悲劇」(準決勝のドイツ戦で1-7という歴史的大敗を喫した)が有名だけど、それ以前はブラジル・サッカーの聖地・マラカナンスタジアムで起こった「マラカナンの悲劇」が有名です。
それはブラジルが初めてワールドカップを制する目前でまさかの結末となったことから、ブラジル・サッカーにおいて最大級の悲劇として語られています。それが起こったのは1950年のワールドカップ・ブラジル大会、即ち1回目の自国開催という舞台だったことから、ブラジルにとって屈辱以外の何物でもありませんでした。
そんなわけで今から69年前の今日1950年7月16日は、マラカナンの悲劇が起こった日です。

1930年にウルグアイで第1回大会が行われたのをきっかけに始まったサッカーのワールドカップ、ブラジルは第1回から連続で出場しているけど、1950年当時はまだ優勝はありませんでした。
1950年のワールドカップはブラジルで開催となったが、理由として当時は第2次世界大戦が終わったばかりでヨーロッパは戦争の傷跡が残っており、唯一この年のワールドカップ開催に名乗りを上げ、かつ戦争被害が少なかったブラジルが選ばれたのです(予定していた1942年大会はドイツで開催する予定だったものの、戦争により立ち消えとなった。ドイツと同じく立候補したのがブラジルだったから、ちなみにドイツは今大会では戦争責任により参加を剥奪されている)。

そんな状況で始まったブラジルワールドカップ、開催国として優勝を目指したブラジルは1次リーグでユーゴスラビア・スイス・メキシコを寄せ付けず1次リーグを突破、決勝リーグへと駒を進めたのでした。
なぜ決勝リーグかというと、この大会では従来のノックアウト方式のトーナメントではなかった上に、スタジアム建設に多額の予算を費やしたブラジル側が試合数を増やすべしとの提案を持ちかけ、FIFA(国際サッカー連盟)は難色を示すも、戦後初となるワールドカップを成功させたい為にこの案を了承したと言われている。

各グループの1位同士で総当たりという異例のルールで始まった決勝リーグ、ブラジルはウルグアイ・スペイン・スウェーデンと相まみえるわけだが、初戦のスウェーデン戦は7-1と圧勝して幸先いいスタートを切り、続くスペイン戦では6-1とこれまた圧勝、悲願の初優勝が見えてきたわけだが、最終戦の相手はウルグアイ、ウルグアイはここまで1勝1分、ブラジルはこの試合で引き分け以上なら優勝という優位な状況で1950年7月16日、マラカナンスタジアムでウルグアイと対戦しました。

ブラジルの初優勝の瞬間見たさにマラカナンスタジアムには19万もの観衆が詰めかけ、この試合のブラジル代表は白いユニフォームに身をまといました。
試合は前半はスコアレスで折り返したが、後半早々ブラジルが先制ゴール、初優勝の瞬間に一歩前進したことで観衆は歓喜したものの、この歓喜が一瞬にして数十分後に絶望となることは知るよしもなかった・・・。

後半21分にウルグアイが同点ゴール、そして34分に逆転ゴールを許し、試合は1-2でそのまま終了。ウルグアイが第1回大会以来となるワールドカップ優勝を果たしたのだが、一方のブラジルはまさかの結末に会場は水を打ったように静まり返ったのだった。
まさかの結末に観衆は号泣し、ショックのあまり2人が自殺というショッキングな展開となり、20人が失神するというこれまたショッキングなものとなった。そりゃ自国の初優勝を信じて駆けつけたのにこの結末、ショックを隠せないのも当然である。後年この事件を教訓としてかブラジル代表は白いユニフォームを廃止して現在のカナリア色のユニフォームに変えている。ブラジル代表のユニフォームがカナリア色の理由にはこんな歴史があったと思うと、忌まわしさを忘れさせる為の措置だったんですね。

にわかには信じられないが、当時のブラジルもまた欧米と並んで人種差別が激しく、観衆の批判は3人の黒人選手へと向けられ、とりわけゴールキーパーだったモアシル・バルボーザは生涯ブラジル国民から「疫病神」と批判されたのでした。試合に負けたからって黒人のせいにするのは、白人優越という歪んだ価値観でしかない。この悲劇が原因でブラジル代表では長らく黒人のゴールキーパーを冷遇したんだから、ヒドい話です。今だったら人種差別行為で相当なペナルティを喰らうのがオチだが。

だがこの試合を見て自分がブラジルをワールドカップで優勝させたいという強い夢を持った一人の少年がいた。その少年はこの大会の8年後にスウェーデンで行われたワールドカップに出場してブラジルを悲願の初優勝へと導いたのを境に、そこから「サッカーの神様」と評されるほどの名選手となった。その少年はブラジルが敗れて涙にくれる父親に対して「悲しまないで、自分がブラジルをワールドカップで優勝させるから」と励ましたけどね。

ブラジル・サッカー史上最も忘れることの出来ないトラウマ・マラカナンの悲劇、それを完全に払拭しようと臨んだあれから64年後の2度目となる自国開催ワールドカップで優勝を目指したものの、準決勝のドイツ戦で1-7で大敗、マラカナンの悲劇以上のトラウマとなったことで、歴史が繰り返されたとしか思えないんだよね。サッカー王国のプライドと自国民からの過剰とも言えるプレッシャー、ブラジル代表ほどサッカーにおいて過酷な運命を背負っていることは間違いない。

theme : FIFAワールドカップ
genre : スポーツ

通天閣の日

大阪のシンボルと言えば太陽の塔(大阪万博のシンボル)・道頓堀・新世界など数えたらきりがありませんが、中でも通天閣は欠かせません。
本日7月3日は通天閣の日という記念日ですが、今から107年前の今日1912年7月3日にその通天閣が完成したことにちなんでいます(現在は2代目)。その由来は「天に通じる高い建物」で、明治時代の儒学者・藤沢南岳が名付けたのです。

1903年に第5回内国勧業博覧会誘致において東京との一騎打ちを制した大阪市、これには当時の大阪市長がパリに飛んで万国博覧会の仕組みを事細かに調査したことで誘致に至り、内国勧業博覧会を成功させたことでそれを記念してその跡地に新たな名所を作ろうと大阪市が提案して、パリのエッフェル塔を意識した塔を建設して1912年7月3日、通天閣は完成したのです。当時は東洋一のタワーと評された。
エッフェル塔を意識した作りからか、初代はどこかエッフェル塔に似ている部分もある。

しかし太平洋戦争が激化した1943年に鉄材を軍需資材に充てたかった軍により解体、戦争により初代通天閣は姿を消したのです。

戦後大阪で新世界の住民が「通天閣を再建せよ」という動きが出て、当初はあまり賛同の声はなかったものの徐々に債権に賛同する動きが出たけど、初代の跡地は既に住宅地となっており、違う場所に立てることと建築業者の確保が優先課題でした。
それでも大阪の意地からか、再建はゴタゴタ(資金調達が上手く行かなかったりなど)もあったけど無事に進んで、1956年に完成、現在に至るまで大阪のシンボルとして多くの観光客を集めてます。

外観の広告は日立で(当初は松下電器産業【現在のパナソニック】に広告を打診したものの松下幸之助が難色を示したとされる)、5階まであり最上階には展望台とビリケン像が置いてあり、現在のビリケン像は3代目である(初代は新世界に存在していた遊園地ルナ・パークに置かれてたが、ルナ・パークの閉鎖に伴い消息不明、2代目は1979年に通天閣に「ふれあい広場」を作る際にかつて新世界にあったビリケン像を復活させたが、2012年までに多くの人からビリケン像の足の裏を撫でられたことから足の裏が変色し、また2012年は通天閣誕生から100周年となる節目の年だったことから新調され、その新調されたのが3代目)。
新世界の歴史を伝える為か、3階にはルナ・パークのジオラマを展示している。
2階にはあの「キン肉マン」ミュージアムもあり(言わずもがな、作者・ゆでたまごは大阪出身である)、キン肉マンファンなら行ってみたい場所です。1階出入り口近くには王将の碑が置かれており、大阪が生んだ名棋士・阪田三吉を称えてます。
毎年暮れにはここで干支の引き継ぎ式もここでやっており、テレビで見た人も多いでしょう。

大阪のシンボルである通天閣、これからも大阪を見守っているでしょう。ビリケン像と共に。最上階から大阪市内を一望出来るし。
大阪人は何と言おうとタワーは通天閣が一番だと言ってはばからないのも無理はないわな。

theme : こんなお話
genre : ブログ

球戯場の誓い

この出来事は18世紀のフランス史を語る上で欠かせないエピソードの一つだが、これには長年課税を強いられていた第三身分(平民)の逆襲とも呼ぶべきもので、後にフランス革命につながることになります。
その名は球戯場の誓い、当時のブルボン王朝の居住地だったベルサイユ宮殿の球戯場で第三身分の代表が憲法を制定するまで三部会を解散しないことを決めた出来事です。
そんなわけで今から230年前の今日1789年6月20日は、第三身分代表議員が球戯場の誓いをベルサイユ宮殿の球戯場で決起した日です。

ルイ14世の時代に栄華を極めたブルボン王朝、しかしベルサイユ宮殿建設に多額の金を費やしたこともあってか国の財政が逼迫、18世紀に入ると度重なる戦争もあってかそれにも金を費やして(アメリカ独立戦争ではアメリカ側を支援した)、財政の建て直しを迫られた当時の国王ルイ16世は、これまで第三身分しかなかった課税の義務を第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)にも与えねばならないと、1614年を最後に行われていなかった三部会の召集を決めたのです。
当然第一身分と第二身分はこれまで課税を免除されてきたのに自分たちも課税しなければいけないなんてと反発するわけだが・・・。

第三身分代表は合同審議及び個別投票を訴えるも、第一及び第二身分は身分別投票と分離審議にこだわって反発、これには当時のヨーロッパでは聖職者と貴族は特権意識を強く持っていたせいか、第三身分の言い分など聞くに値しないという意識が強かったことが挙げられます。特権階級にいるのをいいことに低い身分の者をバカにして相手にすらしない姿勢、序列社会の弊害もいいところだわ。イギリスの階級社会やインドのカースト制度にも当てはまるもので。第一身分が聖職者なのは、当時のヨーロッパでは教会は権威主義的な価値観がまだあったわけで。

これに反発した第三身分は「第三身分とは何か」で有名なアベ・シエイエスの呼びかけで、三部会とは別の行動を起こして、第三身分の集まりこそが国民の代表だとして国民議会を称するようになったのです。これが後に共和制につながるきっかけにもなる。
この動きに一部の聖職者と貴族が合流するようになり、賛同者が出たことで国民議会は勢いづくわけだが、これに驚異を感じたルイ16世は国民議会の議場を閉鎖するという実力行使に及んだのだった。ルイ16世にすれば自分たちの地位を脅かす勢力の存在が出たことはブルボン王朝の存続に関わることだったんでしょうね。

そして1789年6月20日、議場を追われた国民議会はベルサイユ宮殿内の球戯場に目をつけ、ここを議場として「王国の憲法が制定されて確立されるまで我々は議会を解散しない」と高らかに宣言したのでした。

長年課税を強いられて苦労とストレスだけが溜まった第三身分の逆襲は、旧体制への反発が爆発して国民議会につながったわけだが、今まで権利すらなかった自分たちこそ国の代表なんだ!! 王や貴族、聖職者だけが国の代表ではないという強調に映るし、一部の特権階級だけがいい思いをするなんて許せないってことでしょう。これは金融資本主義に毒された今のアメリカにおける「ウォール街を占拠せよ」運動を見てると、何かそれを連想しそうだ。

theme : 歴史
genre : 学問・文化・芸術

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